『三国志演義』毛宗崗本における龐徳評
『演義』における龐徳の最期は、みじめに降伏した于禁と違い、堂々と関羽と戦い、そして曹操への忠義で死んでいった・・・とずっと思っていたのですけど、どうやら違うらしいとのウワサを最近聞きました。
そこで、現在の『演義』を編纂した毛宗崗が、この件についてどう評価をつけているかと思ったら、それはもう罵倒と皮肉の数々でした。正確でない部分があるかもしれませんが、以下に挙げられるだけを紹介します。
龐徳は彼なりの忠義を貫いて死んだのだ――漠然とそう思い込んでいた方としては、とてもびっくりしました。
龐徳の死に、君子が習うものはない。
戦場で死んだのならば、ただ馬の皮でもって死骸を包むのみであり、どうして棺なぞを持ち出す必要があろうか。
(龐徳が空の棺を持って決死の覚悟を示したことに対して)
⇒この「以馬革裹屍」は、『後漢書』馬援伝で、馬援が「男兒 辺野に於いて死せんとすれば、馬革を以て屍を裹みて還葬せんとするのみ」と言ったことを出典とする故事です。言わずもがな、馬援は馬超の祖になります。
この評語は、龐徳とは旧主の祖先たる名将馬援の心構えすら知らないのだ、と揶揄している訳です。
死を以て自ら誓うはもとより好漢である。しかし惜しむらくはその覚悟は(曹操に対してという点で)不当であることだ。
(龐徳の決死の誓いに対して)
まさにその通りだ。
(関平が龐徳を「背主の賊」と罵ったことに対して)
龐徳には兄がいないのだ、どうして関公に子があることを知っていようか。
⇒たぶん、兄嫁を殺すような龐徳が、関羽関平父子の義心を知るわけがない、という揶揄だと思います。
刀で勝つことができないから矢で勝とうとする。やはり英雄とは言えまい。
(龐徳が関羽の肘を射たことに対し)
どうしてこの台詞が曹操に捕まった時には書いてなかったのだろうね?
(龐徳が味方に「壮士は節を曲げて生を求めない」と励ました場面に対し)
龐徳が降伏を拒むのは、妻子が許都にいるからであろうか。兄嫁を殺し、兄と絶交しても、妻子だけは見捨てることができないのか?
(龐徳が関羽の勧告を拒んだことに対して)
この時は関公は別の棺で龐徳を弔ったのだろう。龐徳がはじめに持ってきた棺など、どこかに沈んでしまったのか知らん。