『三国志演義』李卓吾本における龐徳評
こないだ、龐徳が「毛宗崗本」にて思わぬ酷評をされていたことを書きました。
―『三国志演義』毛宗崗本における龐徳評
そいでその記事は、こんな感じにコメントを頂戴して、まとめに入れていただいたりもしました。どうもありがとうございます。
―ここが変だよ三国志演義!樊城の戦い編 &清代で貶されまくる龐徳
そんな感じに大変意外だった毛宗崗評なんですが、しかしあの記事を書くと同時に僕は、カンなんですけど、たぶんこの毛宗崗の批評は『三国志演義』的には正しくないだろうなって予想をしていました。
この段落はどう見ても、関羽vs龐徳という一大勝負が最大の見せ場となる場面であり、三国志最強の関羽と渡り合う龐徳の武勇が描き出されるべき場面です。どうも毛宗崗の批評はそれに水を指してるように思えます。
と言うのも、毛宗崗の評語には、純粋に物語を解説するものあれば、中にはかなり恣意的な解釈をするものもあって、この件に関してはたぶん後者じゃないかなと思った次第です。
そこで毛宗崗とは別の人の批評も見てみました。
それは、「毛宗崗本」以前においてもっともポピュラーであり、また毛宗崗自身もコレを見ながら「毛宗崗本」を書きあげたと言われている、「李卓吾本」こと李卓吾先生の批評であります。
「李卓吾本」における龐徳の最期には、以下の詩が引用されていました。
関公 憐れんでこれ(龐徳)を葬す。後人に詩賛有りて曰く、
威武は屈す能はずして、節操は改む能はず。
生きてはまさに金鑾に上り、死してもなお鐡鎧を被る。
烈々たる大丈夫、垂名を千載に昭かにするは南安の龐令明。
日月 光彩を競ふ。*1
龐徳の威武と節操をストレートに讃えた詩です。
そしてこれを受けて、この回(第七十四回)の総評は以下のようにまとめられています。
龐徳 櫬を舁ぎて行く。志 已に必ず両立せず。彼に非ざれば即ち此なり。定めて一傷に当たる。此 亦 丈夫の図事之法なり。天下の事、ただ成敗の両途に有り。成たれば則ち王たりて、敗たれば則ち寇たり。此 定理なり。何ぞ必ず首を畏れ尾を畏れて以て天下に取笑せん。龐徳の如き者、真の丈夫の図事之様子なり。取るべし取るべし。
雲長 龐徳の降るを欲するも、龐徳 降らず。両々の丈夫、倶に敬服に堪ふ。于禁の如き者、真に犬豕のみ。何ぞ言ふに足らんや。*2
こちらも口を極めて、龐徳の心構えを賞賛しています。
特に、前詩の「日月 光彩を競ふ」や「両々の丈夫、倶に敬服に堪ふ」など、関羽と龐徳を並べて讃えるところにこの場面の意義が見出されているんじゃないかなと思います。いずれにしても素直な解釈と言えましょう。『三国志演義』の原義に則った読み方だと、僕は思います。
そして、これらを受けた毛宗崗がどのように龐徳を評価したかと言えば、それが真逆であったのは最初の通りです。
「李卓吾本」にはあった、賞賛の詩も、李卓吾の総評も、毛宗崗は全部削り、その上で前回紹介したような辛辣な評語をたくさん加えているのです。それはどうしてでしょうか?
そもそも毛宗崗は、作品のエンターテイメント性よりも「大義」を明らかにする方に重点をおく傾向にある人です。
この段落では、関羽と龐徳の華々しい対決はエンターテイメントです。にも関わらず好敵手であるはずの龐徳を貶めるのは、それで「義」が明らかになるからです。
『三国志演義』本来の読み方でしたら、この場面は読者を興奮させる関羽vs龐徳の一大決闘と見るべきです。それを敢えて、恣意的に解釈を捻じ曲げてまで龐徳を罵倒するコメントを連打する理由は、毛宗崗が「かくあるべしと考える大義」に龐徳が背いてしまっていたからです。ひとつには故主馬超に背いて曹操に従ったこと。ふたつには関羽に従わなかったこと。みっつには龐会が関羽の子孫を皆殺しにしてしまったこと。三度までも蜀漢に対して「不義」を犯していた龐徳を、毛宗崗は見逃すことができなかったのです。
このように、現在の『三国志演義』には毛宗崗の価値観が強く反映されていると考えられています。そこが面白いところでもあり、一方で「文学性がない」と言われる『演義』の限界なのだろうなって僕は思います。