三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『吉川三国志』桃園の巻 「昭和15年の序文」

 1962年9月7日に亡くなった吉川英治、その著作権がこの1月をもって切れました。
 すると、早速も早速、早くも新潮社文庫さんが『吉川三国志』の再版をお出しになられました。これまで吉川英治の著作はほぼ講談社が独占していたものですから、今後いろんな出版社から出ることになれば面白いと思います。

 『吉川三国志』は今からおよそ70年前、1939年から1943年にかけて新聞連載のかたちで発表されました。
 年代的な背景としまして、吉川英治は当時『三国志』とほぼ並行して『宮本武蔵』や『新書太閤記』を連載しており、まさに大衆作家吉川英治の全盛期とも言える時期になります。
 しかし何よりも、この時代は、1937年を端緒とする日中戦争および太平洋戦争の真っただ中でありました。『吉川三国志』を読む上で、この時代背景を欠くことはできません。

 今回の新潮社版にも収録されている「序」は、もともと本作の初収本が刊行された昭和15年当時に書かれたものです。
 ところが、新潮社版の監修者注にも「ただし、本作の執筆動機が当時の日中戦争や「ペン部隊」従軍にあることを述べる箇所など、再版時に削られた内容もある」とある通り、戦後になって再版した際に多少手が加えられました。現在の版に収録されているものは全てこの改訂版の方になっており、「原序」を見る機会はなかなかないかと思います。
 今回、新潮社からの再版ということで、せっかくなのでその初版当時の「序」全文を載せます。以下のうち、太字になっている箇所は現在の「序」が異なる字句に改めた箇所、赤字になっている箇所は現在の「序」では削られた文章です。
 『吉川三国志』はこんな時代に読まれました。


   序
 
 三國志は、いふ迄もなく、今から約千八百年前の古典であるが、三國志の中に活躍してゐる登場人物は、現在でも支那大陸の至る所にそのまゝ居るやうな氣がする。――支那大陸へ行つて、そこの雜多な庶民や要人などに接し、特に親しんでみると、三國志の中に出て來る人物の誰かしらときつと似てゐる。或は、共通したものを感じる場合が廔々ある。

 だから、現代の支那大陸には、三國志時代の治亂興亡がそのまゝあるし、作中の人物も、文化や姿こと變つてゐるが、猶、今日にも生きてゐるといつても過言でない。
 従軍二囘、北支中支の黄土を踏んでから、私は、少年時代にも耽讀した三國志演義を、もういつぺん讀み返してみた。そして、再讀して得た大きな意義と新しい興味を覺えて、遽にこの執筆を思ひついた。

 三國志には、詩がある。
 單に尨大な治亂興亡を記述した戰記軍談の類でない所に、東洋人の血を大きく搏つ一種の階調と音樂と色彩とがある。
 三國志から詩を除いてしまつたら、世界的といはれる大構想の價値もよほど無味乾燥なものにならう。
 故に、三國志は、強ひて簡略にしたり抄譯したものでは、大事な詩味も逸してしまふし、もつと重要な人の胸底を搏つものを失くしてしまふ惧れがある。
 で私は、簡譯や抄略を敢てせずに、長篇執筆に適當な新聞小説にこれを試みた。そして劉玄徳とか、曹操とか關羽、張飛その他、主要人物などには、自分の解釋や創意をも加へて書いた。随所、原本にない辭句、會話なども、わたくしの點描である。

 いふ迄もなく三國志は、支那の歷史に取材してゐるが、正史ではない。けれど史中の人物を巧妙自在に拉して活躍させ、後漢の第十二代靈帝の代(わが朝の成務天皇の御世、皇紀八百年頃)から、武帝が呉を亡す太康元年までの凡そ百十二年間の長期に亙る治亂が書いてある。構想の雄大と舞臺の地域の廣さは、世界の古典小説中でも比類ないものといはれてゐる。登場人物なども、審らかに數へたなら何千何萬人にものぼるであらう。しかも、是に加ふるに支那一流の華麗豪壯な調と、哀婉切々の情、悲歌慷慨の辭句と、誇張幽幻な趣きと、拍案三嘆の熱とを以て縷述されてあるので、讀む者をして百年の地上に明滅する種々雜多な人間の浮沈と文化の興亡とを、一卷に偲ばせて、轉深思の感慨に耽らしめる魅力がある。

 見方に依れば三國志は、一つの民族小説ともいへる。三國志の中に見られる人間の愛慾、道徳、宗繁、その生活、又、主題たる戰争行爲だとか群雄割據の状などは宛ら彩られた彼の民族繪卷でもあり、それの生々動流する相は、天地間を舞臺として、壯大なる音樂に伴つて演技された人類の大演劇とも觀られるのである。

 現在の地名と、原本の誌す地名とは、當然時代に依る異ひがあるので、分つてゐる地方は下に註を加へておいた。分らない舊名もかなりある。又、登場人物の爵位官職など、ほゞ文字で推察のつきさうなのはその儘用ひた。餘りに現代語化しすぎると、その文字の持つてゐる特有な光彩や感覺を失つてしまふからである。

 原本には『通俗三国志』『三国志演義』その他數種あるが、私はそのいづれの直譯にも依らないで、随時、長所を擇つて、わたくし流に書いた。これを書きながら思ひ出されるのは、少年の頃、久保天髄氏の演義三国志を熱讀して、三更四更まで燈下にしがみついてゐては、よく父に寝ろ寝ろと云つて𠮟られたことである。本來、三國志の眞味を酌むにはの原書を讀むに如くはないのであるが、今日の讀者にその難澁は耐へ得ぬことだし、又、一般の求める目的も意義も、大いに異ふはずなので、敢て書肆の希望にまかせて、この紙不足の折ながら上梓することにした。多少なり興亞の大業の途にある現下の讀物として、役だつ所があれば望外の倖せである。

     昭和十五年・初夏
     於草思堂
        著者

 


三国志(一) 桃園の巻 (新潮文庫)

三国志(一) 桃園の巻 (新潮文庫)