『吉川三国志』桃園の巻 「劉備の母」
だが、二歳から四十年まで、自分が会ったり知ったりして来た女性のうちへ、現在の周囲も入れ、お前は一体、いちばん誰に恋しているのかと問われれば、僕は真っすぐにこう答えるよりほかにしかたがない。
――死んだおっ母さん。
吉川英治『窓辺雑草』
吉川英治という作家を語るに、母親である吉川いくさんは決して欠くことのできない存在であり、同時に吉川文学における「母」は重要なテーマだと言われています。
『吉川三国志』にも印象的な「母」が登場します。徐庶の母であり、そして劉備の母です。『演義』に典拠を持つ徐庶母と異なり、劉備の母は全くの創作です。
『吉川』以前の「三国志」、すなわち『通俗三国志』には「劉備、字は玄徳、父を劉弘といひしが、幼なふして喪なひしかば、母に事(つかへ)て孝をつくし、自ら履を賣、蓆を織て家業とす」「(桃園に義を結んで)玄徳を兄とし、関羽を次とし、張飛をその次とし、共に玄徳の母を拝して」と書かれるのみでしたが、それを毅然と我が子を見守る「母」に仕上げたのは、すべて吉川英治でありました。むしろ、『演義』では"登場"人物とも言えないようなものですから、「劉備母」は『吉川三国志』オリジナルの人物と言っていいと思います。
それが現代の「三国志」の多くに登場するほどになり、かつて立間祥介先生が「お前の三国志は劉備の母親も登場しないくせに、"全訳"を謳うとは何事だ」などと読者から痛烈に批判されたことは、ある意味で彼女が「三国志」に欠かざるべき存在になっていたことを示します。『吉川』に大きな影響を受けた横山光輝や柴田錬三郎はもとより、王欣太の『蒼天航路』にすら登場する「劉備母」。
旅商売に出てる息子を今日か今日かと待ちわび、劉備が持ち帰った茶壷を抱いて泣き、志の萎えた劉備を折檻し、帝王の末裔として天下への忠勤を第一に説教する「母」。孝行という小事よりも天下という大事。なぜあの吉川が、あの時代―日中戦争を目の当たりにした時代に、このような「母」を書いたことの意味とはなんだったのか。
「劉備母」の人物像を考えることは、そのまま『吉川三国志』とは何者かという問題に繋がることです。王欣太さんは例の茶壷のシーンを見たとき、その読んでる本まで一緒に放り投げてまったって話で、たぶん『蒼天航路』に出てくる劉備の母親はそんな『吉川』に対する反論なのだと思いますけど、とにかく良くも悪くも「劉備母」は『吉川三国志』を象徴する人物なのであります。
今、僕はいくつかの機会が重なって、もう何度も『吉川三国志』を読み返すことになっているのですけど、もちろん今でも「劉備母」が何者なのか、わかるようでわかりません。
ちなみに、劉備の挙兵を見送って以降の「劉備母」はどうなったのでしょうか。
『吉川三国志』は冒頭の創作部分に対し、黄巾の乱が終わって以降はほぼ『通俗三国志』通りのストーリー展開をするため、「劉備母」も物語から姿を消します。ただ、劉備が徐州に割拠した際にわずかに登場し、そのまま徐州で最期を迎えたと書かれています。同じく吉川オリジナルの人物として有名な芙蓉姫が、中盤以降は設定そのものをなかったことされたことに比べれば、やはり吉川にとって「母」は忘れる事のできない人物であったようです。
- 作者: 吉川英治
- 出版社/メーカー: 新潮社
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