三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

関羽の末裔

 我われはこの男を知っている!
 いや!この重棗の如き顔色とこの美髯を知っている!


 
 




関龍逢

 後述の『新唐書』宰相世系表にて、関氏の祖とされている。
 正史を検索してみると、「関龍逢は、夏の桀王の臣である。比干は、殷の紂王の叔父である。二人はともに諫言をし、誅死された」*1とあるように、比干と並べて亡国の忠臣として言及されることが多いです。

関平

 正史『三国志』では、関羽と共に戦死したという程度の記述しかないものの、
 『三国志演義』では関羽の養子と設定され、劉表客将時代から一武将として活躍する。
 『演義』があえて養子に設定した事は、劉備の養子である劉封と対比させるためではという話もある。

関興

 関羽の死後、爵を嗣いだ。
 『三国志』には、諸葛亮に期待され、弱冠にして侍中、中監軍に任じられたが、早逝したとある。
 『三国志演義』では関羽二世として北伐等で活躍。しかし北伐の最中に病没したため、諸葛亮は甚く悲しんだ。

関索

 『三国志演義』に突如登場した関羽の子。
 『演義』における関索の挿話は、明らかに後代になってから挿入されたものであったため、長らく謎の人物とされていた。
 しかし1967年、『花関索伝』なる資料が出土したことで、関索にまつわる説話の一端が明らかになった。
 『三国志演義』版本の研究において、最も重要な指標となってきた人。

関銀屏

 関羽の娘。
 一応のモデルとなる説話が『三国志』にあるものの、何より立間先生らが翻訳した『三国志外伝』(徳間書店、1990)にて彼女に関する民間説話が紹介されたため、有名になった。
 このたびプレイアブル化された。

関統

 『三国志』には、関興を嗣いだが子がなく死去したとある。

関彝

 『三国志』には、関興庶子だったが関統に後継がなかったため、関羽の爵を嗣いだとある。その後は不明であるが、注引『蜀記』には、蜀漢が滅びた際に龐會により関氏の家はみな滅びたという。
 『三国志演義』一一九回では、蜀漢滅亡後の混乱の中で太子の劉璿と漢寿亭侯の関彝が殺されたとある。

関謹、関防、関河、関山、関心

 明代の演義文学、酉陽野史『三国志後伝』に登場する関羽の孫たち。
 『三国志後伝』は、蜀漢の遺臣・末裔たちが劉淵劉備の孫)を擁立して西晋と戦い、漢を再興するという物語で、『三国志演義』の主要人物たちの後裔が多数創作され、登場する。
 また本作に登場する末裔たちの特色は、単純に架空の末裔を創作するのではなく、実際に西晋末に活躍した人物たちを「三国志」の末裔に再設定している点にある。例えば、後趙の名臣である張賓を張飛の孫とし、群雄のひとり王彌を王平の子とした。
 あるいは関謹らも、誰か西晋の人物にモデルがいるのかもしれない。

関朗

 今泉恂之介『関羽伝』(新潮選書、2000)にて、中国の伝承では関羽の子孫とされている、と紹介されている。
 僕も、以前台湾で読んだ本にそう書いてあるのを見たことがあります。
 『宋史』芸文志に、『易経』の注釈者として関朗なる人物の名前が見られ、たしかこの人のことだったと思う。

関康之

 同じく今泉恂之介『関羽伝』にて関羽の子孫と紹介されている。
 自分が見た本では、確か関朗と父子関係にされていたと思います。
 関康之なる人の列伝は『宋書』陰逸伝や『南齊書』高逸伝にある。
 劉宋末の人物で、字は伯愉、河東郡楊県の出身。もちろん関羽との関係については触れられない。

関播

 字は務元、衞州汲の出身。唐の紱宗の時代に宰相の任にあった。
 かの名高い『新唐書』巻七十五下 宰相世系表にて、関羽の後裔とされている*2

関氏は、殷の関龍逢の後裔から出ている。蜀の前将軍漢寿亭侯の関羽は、侍中の関興を生み、その後裔は信都に住んだ。末裔の関播は、徳宗の時代に宰相となった。

関勝

 白話小説水滸伝』に登場する関羽の末裔。
 梁山泊の第五位で、渾名は大刀。
 第六十三回に初登場し、「このひとは漢末三国時代の"義勇武安王"の嫡流で、姓は関、名は勝という。関雲長によく似て、青龍偃月刀を使うので、大刀関勝と称される*3」とされる。最期は第百二十回にて、酒がもとで落馬して死去した。
 『宋史』巻四百七十五判臣上 劉豫伝にて言及される関勝*4がモデルともいうが、、、?

関居斌、関朝泰、関霨

 清代の人たち。いわゆる雍正帝の『世宗憲皇帝實錄』巻一百二十一に以下のような記録がある*5

 雍正十年七月に、「荊州府江陵縣では、関羽ゆかりの地であることから、五十二代孫の関朝泰が毎年の祭祀を行っております。解州(関羽の生地)と洛陽と同じように、関朝泰を五経博士として、系統を嗣がせますように」との上疏があり、その通りにした。

 そして『清史稿』卷一百十五 職官志二 衍聖公、五經博士に以下のようにあった*6

康熙五十八年、五十七代の関霨を五経博士とし、洛陽の廟祀をつかさどらせた。雍正四年、五十二代の関居斌を五経博士とし、解州の廟祀を奉らせた。また十三年、五十二代の関朝泰、当陽の廟祀をつかさどらせた。

*1:「關龍逢、桀臣。王子比干、紂諸父。二人並諫、悉皆誅死」『後漢書』陳蕃伝 李賢注。

*2:關氏出自商大夫關龍逢之後。蜀前將軍漢壽亭侯羽、生侍中興、其後世居信都。裔孫播、相紱宗

*3:「此人乃是漢末三分義勇武安王嫡派子孫、姓關名勝。生的規模與祖上雲長相似、使一口青龍偃月刀、人稱為大刀關勝。」

*4:「因遣人啗豫以利、豫懲前忿、遂畜反謀、殺其將關勝、率百姓降金、百姓不從、豫縋城納款。」

*5:「雍正十年壬子、秋七月……庚寅。……禮部議覆、湖北巡撫王士俊疏言、荊州府江陵縣、爲
関聖帝君盡忠授命之地、塚墓現在當陽。今有五十二代孫歳貢生關朝泰、歳時奉祀。請照解州洛陽之守祠之例、授爲五経博士、准其世襲。應如所請、從之。」

*6:「康熙五十八年、授關公羽五十七世孫霨、主洛陽廟祀。雍正四年、授五十二世孫居斌、奉解州廟祀。十三年、授五十二世孫朝泰、主當陽廟祀」