三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『吉川三国志』草莽の巻 「劉安、人を喰った話」

 吉川英治が原典とした『三国志演義』(ならびに『通俗三国志』)には、以下の3か所に人を喰った話があります。
 第9回、董卓誅殺後に李儒が怨みある民衆から喰い殺される場面。
 第19回、徐州から逃れてきた劉備をもてなそうと、猟師劉安が自分の妻の肉を劉備に供する場面。
 第120回、孫呉滅亡の直前、佞臣岑昏を怨む群臣がこれを喰い殺す場面。
 かつて桑原隲蔵の研究に、古代中国における食人行為の分析がありましたが、李儒と岑昏のケースはその分析のうちの「憎悪を動機とする復讐」に該当します。
 また劉安のケースですが、明清代には「割股」という自らの身体を父母に供することによる孝の実践がありました。このケースもその一種であり、劉安が自らの妻の肉を提供することにより劉備に対する厚い忠を表現している、と考えられるそうです。

 この様にどのケースも一応は古代・中世中国の理念の中で説明がつけられるのですが、しかし現代日本に生きる僕らとしては想像も理解も及ばない話であります。特に、李儒などの様に憎悪による食人ならばまだ理解できないでもないですが、劉安の場合では自ら進んで妻の肉を差し出している上、それが作中で極めて高く評価されているのですから、ますます理解し難いと思われます。
 ところが『吉川三国志』においては、李儒と岑昏のケースは削られていながら、その劉安の挿話のみが、『演義』にある通りそのままで扱われております。
 無論、吉川英治が好き好んで人を喰った話を載せている訳ではありません。例えば李儒のエピソードは、吉川英治が意図的に削ったことが判っております。のちに執筆する『新・水滸伝』でも原典『水滸伝』には多数あった人を喰う話をすべて削っており、吉川英治が度の過ぎた残虐描写に対して慎重であったことが窺えます。
 なのにその吉川英治が、劉安のエピソードについては『演義』そのままに採用しているということは、つまり相当の理由があったからだと思われます。
 それが、この場面に挿入された「読者へ」の言葉に表されています。この様に作者が一言さし挟む例は、『吉川三国志』では極めて稀です。

読者へ
 作家として、一言ここにさし挟むの異例をゆるされたい。劉安が妻の肉を煮て玄徳に饗したという項は、日本人のもつ古来の情愛や道徳ではそのまま理解しにくいことである。われわれの情美感や潔癖は、むしろ不快をさえ覚える話である。
 だから、この一項は原書にはあっても除こうかと考えたが、原書は劉安の行為を、非常な美挙として扱っているのである。そこに中古支那の道義観や民情もうかがわれるし、そういう彼我の相違を読み知ることも、三国志の持つ一つの意義でもあるので、あえて原書のままにしておいた
 読者よ。
 これを日本の古典「鉢の木」と思いくらべてみたまえ。雪の日、佐野の渡しに行き暮れた最明寺時頼の寒飢をもてなすに、寵愛の梅の木を伐って、炉にくべる薪とした鎌倉武士の情操と、劉安の話とを。―話の筋はまことに似ているが、その心的内容には狼の肉の味と、梅の花の薫りくらいな相違が感じられるではないか。


 「そういう彼我の相違を読み知ることも、三国志の持つ一つの意義でもある」、これが本作における吉川英治の最も重要なスタンスだと僕は思います。
 本作の序文で述べられている通り、そもそも『吉川三国志』には、日中戦争を契機とした中国への関心と理解への動きがその根底にありました。それは同時代に発表された村上知行、野村愛正、弓館芳夫らの「三国志」作品にも共通するところです。
 明治以降、「三国志」は広く愛読されてきましたが、高島俊男先生*1が『水滸伝』に対して指摘されたことと同様に、明治時代の「三国志」愛好の背景には、江戸時代以来親しんできた「三国志」が日本の古典だと見なされてきたことがあると考えられます。故に、「古典世界の中国」と「現実世界の中国」は必ずしもリンクしていませんでした。漢籍読みの中国知らず、というやつです。
 それが『吉川三国志』の頃、日中戦争の頃には「現実中国」への熱い眼差しと共に「古典中国」が注目されていました。中国の戦地を二度も訪問した吉川英治には、「現実中国」に対する確かな視座があったと思われます。あえて残された劉安の挿話、それに添えられた「狼の肉の味と、梅の花の薫りくらいな相違」という批評は、その視座の現れであろうと思います。

三国志(三) 草莽の巻 (新潮文庫)

三国志(三) 草莽の巻 (新潮文庫)

 

*1:高島俊男水滸伝と日本人』(大修館書店、1991)