竹中半兵衛と今孔明
『センゴク天正記』11巻、初期からの主要人物であった竹中半兵衛が陣没するこの巻は、かかる引用で締めくくられています。
秀吉を劉備に、半兵衛を諸葛孔明になぞらえて秀吉の悲嘆を表現しているのですが、もちろん実際に諸葛亮が亡くなったのは劉備の没後です。さては何か深い意味があるのかと思い、この『豊鑑』なる史料を参照してみました。
(竹中半兵衛は)播磨にて死なんこそ軍場に命をおとすに同じかるべしとて、いまだなやみながら、秀吉の御座し平山に行て、六月中の此終に失にしぞかし。秀吉限りなくかなしび、劉禅、孔明を失ひしにことならず。
『新校群書類従』16巻(内外書籍株式会社、1928)収録、『豊鑑』巻一
このように、秀吉がなぞらえられていたのは劉禅でした。こちらの方が歴史的には正しいのですが、では『センゴク』の方は引用の誤りだったのでしょうか。個人的には「劉備孔明を失いしに劣らず」の方がいいなって思っているので、残念ではあります。
しかし勉強になったこともありました。
それはこの『豊鑑』が、竹中重門、すなわち竹中半兵衛の息子により編纂されていたことです。
『豊鑑』という江戸時代初期の軍記において、他ならぬ息子自身によって、竹中半兵衛が諸葛孔明に比せられていたことはとても興味深いです。よく戦国武将らが「今孔明」とか「今張飛」とか、「三国志」になぞらえられることがありますけど、つねづねその出典が気になっていました。たぶん江戸時代の軍記物なんだろうなって思っているのですが、今回ひょんなことからそのひとつが見つけられて、おもしろかったです。
またこの頃の「三国志」観というのも、『三国志演義』受容の方面からは気になるところです。と言うのもこの戦国末期から江戸初期が、『三国志演義』が日本に伝来した時期と言われているからです*1。なのでこの頃の人たちが「三国志」をどう思っているか、どのくらい知っていたかは『三国志演義』の伝来時期を推測するに大きく関わっている訳であります。