三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

牛氏と東晋元帝にまつわる正史記事

 先日の雲子さんの牛金毒殺の記事から、twitterで派生した話題に関連しまして、「東晋元帝は牛氏の出身である」という説話が正史資料でいかなる変遷をたどっていたか、資料の成立順にまとめてみました。


○王隠『晋書』(『太平御覧』巻七六一引)

宣帝 既に公孫淵を滅して還る。榼の兩口なるを作り、二種の酒あり、馬上に持ち著はす。先に佳酒を飲み、口を塞ぎて毒酒を開き牛金に與ふ。金飲みて死す。

 宣帝(司馬懿)が公孫淵を滅ぼして帰還した。(そして)両口の酒器を作り、二種の酒をそそぎ、馬上でそれを持ちささげた。先に宣帝がよい酒を飲み、(よい酒の)口を塞ぎつつ毒酒の(口を)開いて牛金に与えた。牛金はそれを飲んで死んだ。

 王隠『晋書』では司馬懿牛金を毒殺したことがあるのみで、その理由などには触れられていないように思われます。
 本書は元帝の勅命で編纂された資料ですから、元帝の醜聞になる「牛金父親説話」は載せられていなかったと思われます。


○沈約『宋書』符瑞志上

是より先、宣帝に寵將牛金有り、しばしば功有り。宣帝 兩口の榼を作り、一口は毒酒を盛り、一口は善酒を盛り、自ら善酒を飲み、毒酒は金に與へらる。金 之を飲み即ち斃る。景帝曰く、金は名將なり、大ひに用ふべし、何を云ひてか之を害するや。宣帝曰く、汝 石瑞の"馬後有牛"を忘るるや。元帝の母たる夏侯妃 琅邪國の小史姓牛と私通して、元帝を生む。

 以前に、宣帝(司馬懿)に寵愛する武将である牛金がおり、しばしば功をあげていた。宣帝は両口の酒器を作り、一口には毒酒を盛り、一口には美酒を盛って、自分は美酒を飲み、毒酒を牛金に与えた。牛金はこれを飲んで死んだ。景帝(司馬師)は、「牛金は名将であり、大いに使うべきですのに、なぜに殺したのですか」と言った。宣帝は、「おまえは石に"馬のあとに牛がある(司馬氏の跡は牛氏が継ぐ)"と瑞祥があったのを忘れたのか」と言った。(しかし)元帝の母である(琅邪王妃の)夏侯妃は琅邪国の役人である牛氏と私通して、元帝を生んだ(ために予言通り司馬氏のあとは牛氏である元帝が継いだのである)。

 司馬懿牛金を暗殺した理由が「馬の後に牛有り」という、司馬氏が牛氏に簒奪されるとの予言を司馬懿が恐れたためだとされています。そしてそのオチとして、「夏侯氏が牛氏と密通して元帝を身籠った」という元帝の出生にまつわる醜聞が加えられました。


○魏収『魏書』僭晉司馬叡伝

晋を僭する司馬叡、字は景文、晉將牛金の子なり。初め晉宣帝は大將軍琅邪武王伷を生み、伷は冗從僕射琅邪恭王覲を生む。覲の妃たる譙國の夏侯氏、字は銅環、金と姦通し、遂に叡を生む。因りて姓を司馬に冒し、仍ち覲の子と為る。

 晋帝を僭称した司馬叡は、字を景文といい、晋の武将である牛金の子である。以前に晋宣帝(司馬懿)は琅邪王の司馬伷を生み、司馬伷は琅邪王の司馬覲を生んだ。司馬覲の妃である譙國の夏侯氏は、字を銅環といい、牛金と交わって、その結果に"叡"を生んだ。よって("叡"は牛氏であるのに)司馬姓を冒して(司馬氏となり)、司馬覲の子となった。

 夏侯氏の密通相手が、はっきり牛金と設定されています。おそらく「司馬懿牛金を殺した」と「夏侯氏が牛氏と密通した」との説話が複合されたものと思われます。後漢末の人である牛金東晋元帝とでは時代的な隔たりがだいぶあります。
 

○房玄齡『晋書』元帝

初め玄石圖に"牛繼馬後"有り、故に宣帝 深く牛氏を忌む。遂に二榼を為り、共に一口、以て酒を貯ふ。帝 先に佳なる者を飲み、而して毒酒を以て其の將たる牛金を鴆す。而ども恭王の妃たる夏侯氏 竟かに小吏の牛氏と通じて元帝を生む。亦た符の云ふ有り。

 以前に『玄石図』に"牛は馬の後を継ぐ"とあり、故に宣帝(司馬懿)は深く牛姓を忌んでいた。そこでふたつの酒器をつくり、それぞれに、酒をそそいだ。宣帝は先によいほうの酒を飲み、そして毒酒でもって牛金を毒殺した。しかし恭王(司馬覲)の妃である夏侯氏は役人の牛氏と密通して元帝を生んだ。("牛は馬の後を継ぐ"という)符瑞のとおりになったのである。

 かくして正史『晋書』の元帝紀は、『宋書』などの記述に拠り、かかる元帝の出生譚を採録しました。
 一般に「元帝牛氏説話」はこの『晋書』本紀で知られていますが、牛金暗殺説自体は東晋元帝当時からあり、東晋滅亡後の南北朝時代から早くも元帝の出生譚が広まっていた様子が窺えます。


○『旧唐書』元行沖伝

行沖 本族は後魏より出でて未だ編年の史有らざるを以て、乃ち魏典三十卷を撰す。事詳文簡たり。學者の稱する所と為る。初め魏の明帝の時、河西柳谷の瑞石に"牛繼馬後"の象有り、魏收の舊史 以為へらく、晉の元帝は牛氏の子なり、姓を司馬に冒し、以て石文と應ず。行沖 事跡を推尋して、後魏の昭成帝の名犍なるを以て、晉を繼ぎ命を受く、と。謠讖を考校するに、特に論を著はし以て之を明らかとす。

○『新唐書』元行沖伝

行沖 系の拓拔より出づるを以て、史に編年無きを恨み、乃ち魏典三十篇を撰す。事詳文約たり、學者 之を尚ぶ。初め、魏の明帝の時に河西柳谷より石出づ、"牛繼馬"の象有り。魏收 晉元帝乃ち牛氏の子なるを以て司馬姓を冒し、以て石符を著はす。行沖 謂うならく、昭成皇帝は犍と名づく、晉を繼ぎ命を受くは、獨だ此れ以て之に當たるべきのみ、と。

 元行沖は(北魏の皇室である)拓拔氏の出身で、史書に編年のものがないことをおもい、『魏典』三十篇を編撰した。事柄は詳細であるも文章は簡約だったので、学者はこれを評価した。以前、魏の明帝の頃に河西柳谷から石が出て、"牛は馬を継ぐ"とのきざしがあった。(『魏書』編纂した)魏収は、晋の元帝が牛氏の子でありながら司馬氏を継いだことを、石瑞が予言したことであると言った。(しかし)元行沖が言うには、(北魏の祖である)昭成皇帝の諱は犍といい(諱に牛へんを含むので)、晋を継承して天命を受ける(という予言は北魏が晋を継承したと)、このことを言っているとすべきだ、と。

 余談ですが、後代の『唐書』に、「牛は馬の後を継ぐ」の予言を再解釈している人の話がありました。彼によればこの予言は牛氏と東晋元帝を言っているのではなく、北魏が晋を継承することを言っているのだとのこと。
 解釈自体はどうでもいいのですけど、東晋元帝と「牛は馬の後を継ぐ」を取り上げている例として、挙げました。