三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

范曄『後漢書』と「党錮伝」

 以前にひろおさんに教えていただいた話を、改めて自分用にまとめました。


 尹勳、字伯元、河南鞏人也。家世衣冠。伯父睦為司徒、兄頌為太尉、宗族多居貴位者、而勳獨持清操、不以地埶尚人。州郡連辟、察孝廉、三遷邯鄲令、政有異迹。後舉高第、五遷尚書令。及桓帝誅大將軍梁冀、勳參建大謀、封都鄉侯。遷汝南太守。上書解釋范滂袁忠等黨議禁錮。尋徵拜將作大匠、轉大司農。坐竇武等事、下獄自殺。
 ―『後漢書』党錮伝 尹勳

 尹勳は、党人番付「八顧」のひとりでして、このように『後漢書』党錮伝に列伝が載せられています。
 ところが、同じく『後漢書』の劉瑜伝には、かかる文章が含まれています。

 及帝崩、大將軍竇武欲大誅宦官、乃引瑜為侍中、又以侍中尹勳為尚書、共同謀畫。及武敗、瑜・勳並被誅。事在武傳。
 勳字伯元、河南人。從祖睦為太尉、睦孫頌為司徒。勳為人剛毅直方。少時毎讀書、得忠臣義士之事、未嘗不投書而仰歎。自以行不合於當時、不應州郡公府禮命。桓帝時、以有道徵、四遷尚書令。延熹中、誅大將軍梁冀、帝召勳部分眾職、甚有方略、封宜陽鄉侯。僕射霍諝、尚書張敬・歐陽參・李偉・虞放・周永、並封亭侯。勳後再遷至九卿、以病免、拜為侍中。八年、中常侍具瑗・左悺等有罪免、奪封邑、因黜勳等爵。
 ―『後漢書』劉瑜伝

 劉瑜伝の附伝という形でこちらにも尹勳の列伝があり、つまり『後漢書』の中で「尹勳伝」が重複している訳です。比較するに文辞はだいぶ違っていますし、「竇武の敗るるに及び、劉瑜・尹勳 並びに誅せらる。事は竇武傳に在り。」とあるように、この文章は明らかに党錮伝の存在を失念しています。
 『後漢書』の一貫性が欠けていると言えましょう。


 これで思い出されるのは、同じく党人番付「八俊」のひとり趙典の列伝であります。
 以前に紹介した通り、趙典は『後漢書』巻二十七に独立した列伝を持ちながら、党錮伝の方では「唯だ趙典の名のみ見ゆるのみ(で事績は不明である)」と書かれており、ここでも『後漢書』と党錮伝とで矛盾が発生していました。

 尹勳も趙典も、いずれも「党錮伝」と『後漢書』別箇所とで重複や矛盾が起こっている事例です。
 「党錮伝」が『後漢書』の整合性から外れて、浮いた印象を受けます。




 もう少し「党錮伝」を見てみました。
 まず1点として、尹勳の親族に関する記述が党錮伝と劉瑜伝とで違っています。
 党錮伝は尹睦が司徒、尹頌が太尉とありますが、一方で劉瑜伝では尹睦が太尉、尹頌が司徒と逆になっています。どちらが正しいのだろうと調べてみるに、少なくとも『後漢書』内では党錮伝以外がすべて太尉尹睦、司徒尹頌としていました。やはり「党錮伝」のみが浮いています。
 
 2点目、そもそも党錮伝は「三君」「八俊」「八顧」「八及」「八廚」の35人全員の伝記を収める列伝であります。ただ中には個別に列伝・附伝を持つ人物もいたり、逆に事績が不明である人物もいるので、その旨は党錮伝序文で説明されています。
 そのようにして35人をカバーしているのですけど、しかし別に附伝を持つはずの尹勳を誤って党錮伝内にも立伝してしまっていたり、独立した列伝を持つはずの趙典を事績不明の扱いにしている、とのミスがあるわけです。
 その類のミスをもうひとつ見つけました。「八廚」のひとり胡母班について「袁紹傳に附す」と説明されているのですけど、『後漢書袁紹伝には胡母班の伝記は含まれていません。尹勳、趙典と同様の"リンクミス"と言えるかと思います。