匈奴の仏像と三国時代の仏教
其の明年春、漢は驃騎將軍去病をして萬騎を將ゐ隴西に出でさしむ。焉支山を過り千餘里、匈奴を擊ち、胡の首虜萬八千餘級を得、破りて休屠王の天を祭るの金人を得る。
―『史記』匈奴伝
去病の侯たること三歲、元狩二年春、票騎將軍と為り、萬騎を將ゐ隴西に出で、功有り。上 曰く「票騎將軍 戎士を率ゐ烏盭を隃え、遫濮を討ち、狐奴を渉り、五王國を歴し、……渾邪の王子及び相國、都尉を執らへ、首虜八千九百六十級を捷し、休屠の天を祭るの金人を收む。……」
―『漢書』霍去病伝
ここで登場する「休屠王が祀天に用いた金人」は、のちに金日磾の由来になったものでもありますけど、後世にはこれを「仏像」と見なす解釈が出てきました。
『漢書』顔師古注の引く如淳曰く「天を祭るに金人を以て主と為す也」と。
張晏曰く「佛徒 金人を祠る也」と。
『史記索隱』の引く崔浩(『漢紀音義』)に云ふ、「胡祭は金人を以て主と為す。今の浮圖の金人は是れ也」と。
※浮圖はブッダのこと
『史記正義』按るに、金人即ち今の佛像なり。
北魏の崔浩、唐の張守節がいずれも金人すなわち仏像と見ているわけですが、ここで注目すべきは張晏の注釈です。
顔師古の『漢書』敘例を見まするに、張晏は曹魏の頃の人と思われます。
仏教は、遅くとも後漢初期には中国に伝来し、三国から西晋の頃にはじわじわと浸透していたと考えられていますが、しかしこの時代の仏教資料は極めて少なく、未だその実態は不詳であります。
しかるに、魏の張晏がこのような注釈をつけているということは、もちろん金人=仏像が正しいかは置いといても、三国時代に仏教思想が存在していたことを示す貴重な事例と見れるという訳なのです。
もっとも、呉の韋昭(『漢書音義』)が「金人を作り以て祭天の主と為す。」(『史記索隱』引く)としか言っていないことも注意しなくてはなりません。
韋昭は『呉書』を編纂したことで有名な人ですが、梁代の慧皎『高僧伝』によれば、仏僧である支謙という人が韋昭らと共に孫権太子の輔導にあたったという話があります。仏教と接触があったかもしれない韋昭が、金人と仏像の関係に触れないことはやはり興味深いことです。