楊駿と楊彪の関係
常識だったらすんません*1。
楊駿、字は文長。弘農華陰の人なり。
―『晋書』楊駿伝
武悼楊皇后、諱は芷、字は季蘭、小字男胤。元后の從妹なり。父の駿、別に傳有り。
―『晋書』武悼楊皇后伝
楊文宗、武元皇后の父なり。其の先 漢に事(つか)へ、四世 三公と為る。文宗 魏の通事郎と為り、襲ひて蓩亭侯に封ぜらる。
―『晋書』楊文宗伝
武元楊皇后、諱は艷、字は瓊芝、弘農華陰の人なり。父の文宗、外戚傳に見ゆ。
―『晋書』武元楊皇后伝
なんか『晋書』って、楊駿の出自血縁がわかりにくい気がするんです。娘を武帝に嫁がせ(武悼皇后)、外戚として権力を振ったため八王の乱の端緒を作った、あの楊駿です。
しかしそれほどの人物ながら、『晋書』は詳しい出自を述べていません。弘農楊氏ならばあの四世太尉楊彪とはどんな関係なのか。そもそも、同じく武帝に嫁いだ武元皇后(武悼皇后の従姉)やその父楊文宗との関係すら明瞭ではない。『晋書』は適当すぎます。
そこで調べました。
まず楊文宗と楊駿の関係は、これはたぶん兄弟でしょう。武悼皇后が武元皇后の従妹ということもそうですけど、いわゆる「三楊」という楊駿、楊珧、楊濟の兄弟がみなあざなに「文」の字を含むからです(順に文長、文琚、文通)。なので楊文宗もまたそのひとりかと思います*2。
では楊文宗(そして楊駿)はいかなる祖を持つのか。ヒントは楊文宗が父から嗣いだと「蓩亭侯」の爵位にあります。検索すれば『後漢書』楊震伝、建安二年に楊震の傍系の孫である楊衆が蓩亭侯に封ぜられてました。これでしょう。漢魏の爵制度が嫡子相続を原則としていたことを考えれば、この楊衆が楊文宗(と楊駿)の直系祖先である可能性は高いです。おそらく祖父くらいでしょうか。
つまり以下の家系が予想されます。
こうゆうことを『晋書』楊駿伝はなんで書いてくれなかったんでしょうね。「駿、漢太尉楊震之六世孫也」とだけ書けばいいじゃないですか。
なんかちょっと怪しい匂いがしないではない気がします。