三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

魏の荀紣か漢の荀紣か

 荀紣について、以前から気になっていた表現がありました。

 荀邈字景倩、潁川人、魏太尉紣之第六子也。
   ―唐修『晋書』巻三十九 荀邈伝
 
 荀粔字景猷、潁川臨潁人、魏太尉紣之玄孫也。
   ―唐修『晋書』巻七十五 荀粔伝

 建安年間に死没したはずの荀紣が「魏の太尉」というのは間違いではないか、ということではなく。
 これは、魏の咸熙二(265)年に荀紣へ太尉を追贈したことを踏まえたもので*1、誤りとは言えません。むしろ荀紣の最高職がこの魏の太尉である以上は、事実に即した穏当な記述かなと思います。
 僕が気に入らないのは、唐修『晋書』がそういうまっとうな表現をしていることです。

 これが西晋陳寿三国志』や、劉宋の范曄『後漢書』だったら、たぶん「魏の荀紣」なんて表現はしないはずです。
 とくに劉宋の武興侯范曄は、ことさら荀紣を高く評価しています。以前にてぃーえすさんも紹介していましたが、『後漢書荀紣伝は、とても微妙な表現の差で「漢の荀紣」を描きます。そもそもあえて『後漢書』に独立して列伝を立てているのもその現れです。
 そして晋修『三国志』と宋修『後漢書』、どちらの荀紣伝も「明年、太祖遂為魏公矣。」「明年、操遂稱魏公云。」で筆を置いており、それ以降のことは書きません。たとえば荀紣が魏から太尉を追贈されたということは歴史的な事実ですが、それもあえて書かない。そう表現することによって、「曹操に敵対して没した荀紣像」が明確になるからです。事実を並べるよりも、かくあるべき「荀紣像」を表現する。ここに荀紣に対する深い思い入れがうかがえます。
 それは『三國志』と『後漢書』の曲筆と言えるかもしれません。ですがそういった事実とか現実とかを超えた表現にこそ、史書の理念は込められるのです。

 むしろここで問題とすべきは、唐修『晋書』の表現にそのような「荀紣像」がないことです。
 なお興味深いことに、これと同じ文章が南齊の臧榮緒『晋書』にあるのです。おそらくは唐修『晋書』の藍本でしょう。

 臧榮緒晉書曰、荀邈字景倩、潁陽人也、魏太尉紣之第六子。黄初末、除中郎。高祖輔政、見邈異之曰、邈令君之子也。
   ―『文選』巻三十八 任彥昇「為蕭揚州薦士表」李善注

 南齊の臧榮緒は『南齊書』巻五十四に列伝がありますが、経歴を見るに、范曄とは身分に雲泥の差があるように思われます。そんな彼が編纂した『晋書』に、「魏の荀紣」という表現がある。
 劉宋の范曄と南齊の臧榮緒との間にある、荀紣像の差がおもしろいと思いました。

*1:咸熙二年、贈紣太尉。(『三国志』巻十 荀紣伝 裴注引『魏氏春秋』)