三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

献帝曹皇后は誰か

 「列女志補説」‐献帝の皇后の名は

 「献帝曹皇后といえば普通は曹節だとされるが、実はその姉のほうだったかもしれない。」
 詳しくはリンク先で確認していただきたいと思いますが、僕は思い込みの隙を突かれたようで、すごく驚きました。
 ただ考察され尽くしていないことや疑問点もありますので、僕も自分なりに調べてみました。


 まず「献帝曹皇后」に関する僕たちの認識は、だいたい范曄『後漢書』皇后紀十下 獻穆曹皇后紀に依っています。

 獻穆曹皇后諱節、魏公曹操之中女也。建安十八年、操進三女憲、節、華為夫人。……及伏皇后被弒、明年立節為皇后。魏受禪、遣使求璽綬、后怒不與。……魏氏既立、以后為山陽公夫人。自後四十一年、魏景元元年薨。

 献穆曹皇后は諱を節といい、魏公曹操の"中女"である。建安十八年、曹操曹憲、曹節、曹華献帝の夫人とした。伏皇后が誅殺されると、翌年に曹節を立てて皇后とした。魏が受禅すると、使者を派遣して玉璽を求めさせたが、曹皇后は怒って渡さなかった。曹魏が立つと、(献帝は山陽公に封ぜられたので)曹皇后を山陽公夫人とした。四十一年後、景元元年に薨去した。

 そういうわけで「曹皇后=曹節」と思われていたのですが、冒頭のブログさんがおっしゃるように、西晋の司馬彪『続漢書』はこれを姉の曹憲であるとするのです。

 續漢書曰、孝獻曹皇后、丞相魏王操女也。名憲。建安十八年、上納操二女憲節於後宫、皆以為貴人。明年伏后薨、憲為皇后。二十年、獻帝禪位於魏、憲拜山陽公夫人。
  ―『太平御覽』巻一百三十六 皇親部二

 『続漢書』に、「献帝の曹皇后は、丞相魏王曹操の娘である。名は曹憲である。建安十八年、献帝曹操の娘である曹憲と曹節後宮に迎え、ともに貴人とした。翌年に伏皇后が薨去すると、曹憲を皇后とした。二十年、献帝が魏に禅譲すると、曹憲は山陽公夫人を拝した」とある。

 司馬彪『続漢書』は范曄『後漢書』よりもかなり先行する史料ですし、また『後漢書』はところどころで信用ならない場合もあります。
 これだけなら「曹皇后=曹憲」が正しい可能性も高いように思われます。



 しかし疑問点が2つあります。
 ひとつに、『続漢書』には以下のような逸文もあること。

 續漢書曰、獻穆曹后節曹操之女也。魏受禪、遣使求璽綬、后怒以璽綬抵軒下。因涕泣横流曰、天不祚此璽。
  ―『太平御覽』卷六百八十二 儀式部三

 こちらでは曹節とされている上、前述逸文にはなかった「献穆皇后」との諡号がちゃんと明記されています。
 ふたつに、『三国志』が「曹皇后=曹節」とすること。

 己未、故漢獻帝夫人節薨、帝臨于華林園、使使持節追諡夫人為獻穆皇后
  ―『三国志』三少帝紀 陳留王奐 景元元年

 
 実はこの問題は王先謙『後漢書集解』が取り上げており、また盧弼『三国志集解』も引き継いで議論していました。王先謙が曹憲派で、盧弼が曹節派であります。
 僕としては、『続漢書』が逸文であること、『三国志』が曹節とすることから、やはり従来通り曹節と考えるのが妥当かと思います。
 でも曹憲説もやっぱり気になりますよねー(゚ω゚)