毛宗崗本における貂蝉の最期
同時代の語り物に比べて、『三国志演義』は貂蝉をきわめて高く評価しています。とくに毛宗崗本『演義』はその傾向が強く、以下のように貂蝉を麒麟閣・雲台(漢の功臣)に匹敵しうる英雄と位置づけています。このことは多くの先行研究で検討されてきました*1。
為西施易、為貂蟬難。西施只要哄得一個呉王、貂蟬一面要哄董卓、一面又要哄呂布、使出兩副心腸、粧出兩副面孔、大是不易。我謂貂蟬之功、可書竹帛。若使董卓伏誅後、王允不激成李郭之亂、則漢室自此復安、而貂蟬一女子、豈不與麟閣、雲臺並垂不朽哉。最恨今人、訛傳關公斬貂蟬之事。夫貂蟬無可斬之罪、而有可嘉之績。
―第八回 王司徒巧使連環計 董太師大鬧鳳儀亭 評語
ただ前から気になっていたんですけど、ここまで高く評価する割には、毛宗崗本の本文は貂蝉に関してこれといった加筆をしていないのです。「美女連環の計」のここをもっとこう書きなおせば貂蝉像がよくなるのにとか、徐州時代の貂蝉は明らかに滅亡の原因となっているから削ってしまえばいいのにとか、いろいろ思うところはあるんですけど*2。
僕の知る限りでの唯一の改変は、呂布滅亡後の箇所です。
操将呂布妻小、并貂蝉戴回許都。
―「嘉靖本」巻四 曹孟徳許田射鹿操収呂布妻女、貂蝉戴回許都。
―「葉逢春本」巻二 曹孟徳許田射鹿操将呂布妻小、并貂蝉戴回許都。
―「李卓吾本」第二十回 曹孟徳許田射鹿(操)將呂布妻女載回許都。
―「毛宗崗本」第二十回 曹阿瞞許田打圍 董國舅內閣受詔
李卓吾本以前では、呂布が滅ぼされるとその妻や貂蝉は曹操により許都に連れられた、とされてきました。ところが毛宗崗本はここから貂蝉の名前を削っています。これ以降は、李本も毛本も貂蝉は登場しません。
なぜここだけを書き変えたのだろうか、この表現の差にどんな意味があるのだろうか、と疑問に思っていました。
たとえば漢の忠臣である貂蝉が曹操の庇護下に行くのはふさわしくない、とか。
あるいは最期は行方知らずとした方が妙味がある、とか。
いろいろその意図を考えてはしたのですが、なんとなくどれもしっくりきません。貂蝉に関する唯一の改変としては、意義が弱い。
しかし先日、ふとしたやりとりからもっと単純なことに気が付きました。これは「関羽斬貂蝉」説話の名残じゃないかと。
「関羽斬貂蝉」とは、文字通り関羽が貂蝉を斬るという物語です。多く場合、関羽は忠義の士、対する貂蝉は国を惑わす悪女とされ、関羽が貂蝉を成敗するという構造になってます。また『演義』では採用されていません。
で、そのうちのひとつにこんなものがあります。
場面は関羽が曹操に一時降伏し、許都に滞在していたときのこと。
なんとか関羽を味方にしたい曹操は、美女貂蝉を送って関羽の歓心を買わせる。しかし関羽はその意図を見抜き、また貂蝉がかつて呂布の妾でありながら今は別の男に身を寄せていることを不義とする。将来の禍根を避けるため、関羽は貂蝉を質問攻めにし、答えを誤れば斬ろうとする。
貂蝉は質問によどみなく答えるが、当世の英雄について問われたとき、心中では呂布と思いつつも、おべっかを使って関羽と答える。これを関羽は不義不貞と見なして斬ろうとする。しかし貂蝉の釈明を聞き、真意を知った関羽は見直して、貂蝉の命を助けて出家を許す。するとそこへ西王母が現れ、貂蝉がもと仙女だったことを明かすと、彼女を伴って帰天した。
これは清代の車王府曲本「三國誌」という語り物の一節ですが、このほかにも「三兄弟を仲違いさせるために曹操が関羽に貂蝉を与える」(民間伝承「月夜送貂蝉」)など、「曹操が関羽へ貂蝉を送り、それを関羽が成敗する」というプロットを持つ「斬貂蝉」説話が少なからず見られます。
以下は推測ですが、この説話を知る者にとって、李本の「曹操が貂蝉を伴って許都に帰った」という表現はその伏線として容易に想起させるものです。もしかしたら『演義』にはもともとこのような「斬貂蝉」説話があって、のちに削られたから伏線部分だけこの形で残ったのかもしれません。
それならば毛宗崗が見逃さなかったこともわかります。冒頭の評語で「最も恨めしいのは、今の人が誤って関公が貂蝉を斬る話を伝えていることだ」とあるように、毛宗崗は「斬貂蝉」説話をはっきりと否定しています。関羽、貂蝉をともに英雄とする毛宗崗にとって、関羽が貂蝉を成敗するという説話はあるべき「演義」像にそぐわないのです。
ゆえに「曹操將貂蝉載回許都」という表現を「斬貂蝉」説話の名残と見なし、本文から削ったのではないでしょうか?