三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

曹植と神仙たち

 僕は、曹植は神仙的要素には否定的だったとイメージしてました。
 裴松之注に引かれる曹植『辯道論』に、こんな文章があるからです。

東阿王作辯道論曰、世有方士、吾王悉所招致、甘陵有甘始、廬江有左慈、陽城有郤儉。始能行氣導引、慈曉房中之術、儉善辟穀、悉號三百歲。卒所以集之於魏國者、誠恐斯人之徒、接姦宄以欺衆、行妖慝以惑民、豈復欲觀神仙於瀛洲、求安期於海島、釋金輅而履雲輿、棄六驥而美飛龍哉自家王與太子及余兄弟咸以為調笑、不信之矣。然始等知上遇之有恆、奉不過於員吏、賞不加於無功、海島難得而游、六黻難得而佩、終不敢進虚誕之言、出非常之語。余嘗試郤儉絶穀百日、躬與之寢處、行步起居自若也。夫人不食七日則死、而儉乃如是。然不必益壽、可以療疾而不憚饑饉焉。左慈善修房內之術、差可終命、然自非有志至精、莫能行也。甘始者、老而有少容、自諸術士咸共歸之。然始辭繁寡實、頗有怪言。余常辟左右、獨與之談、問其所行、溫顏以誘之、美辭以導之、始語余、吾本師姓韓字世雄、嘗與師於南海作金、前後數四、投數萬斤金於海。又言、諸梁時、西域胡來獻香罽、腰帶、割玉刀、時悔不取也。又言、車師之西國。兒生、擘背出脾、欲其食少而弩行也。又言、取鯉魚五寸一雙、合其一煮藥、俱投沸膏中、有藥者奮尾鼓鰓、游行沉浮、有若處淵、其一者已熟而可噉。余時問、言率可試不。言、是藥去此逾萬里、當出塞、始不自行不能得也。言不盡於此、頗難悉載、故粗舉其巨怪者。始若遭秦始皇、漢武帝、則復為徐市、欒大之徒也。
  −『三國志』卷二十九 華佗裴松之注引 曹植『辯道論』

 曹操左慈や甘始ら道士を集め、その方術を試したという有名なエピソードに関する文章です。
 こちらの「左慈らを集めた理由は、彼らが民を惑わせることを恐れたからであり、神仙を求めたからではない」「父や兄弟はみな笑って信じなかった」という記述を見る限りでは、曹植もまた彼らを否定的に見ていた風に読めます。
 
 でもそれに対して、『抱朴子』が引く曹植『釋疑論』にはこんなことが書かれてました。

陳思王著釋疑論云、初謂道術直呼愚民詐僞空言定矣。及見武皇帝試閉左慈等、令斷穀近一月、而顏色不減、氣力自若、常云可五十年不食、正爾、復何疑哉。又云、令甘始以藥含生魚、而煮之於沸脂中、其無藥者、熟而可食、其銜藥者、游戲終日、如在水中也。又以藥粉桑以飼蠶、蠶乃到十月不老。又以住年藥食雞雛及新生犬子、皆止不復長。以還白藥食白犬、百日毛盡鄢。乃知天下之事、不可盡知、而以臆斷之、不可任也。但恨不能絕聲色、專心以學長生之道耳。
  −葛洪『抱朴子』内篇 論仙二

 
 こちらでは同じく左慈の道術を目の当たりにした曹植が、「左慈は一カ月ちかく食を断たれても顔色が変わらなかった、何をか疑わんや」と、彼らの道術を積極的に肯定しているのです。
 『辯道論』も『釋疑論』も、同じ現象に対する言説であるはずなのに、見解がそれぞれ違っているように思えます。曹植の中で心境の変化でもあったのでしょうか?
 僕は曹植の作品などをほとんど読んだことがないんで、彼の神仙思想に対するイメージがどうだったか分かりません。曹植の文学にお詳しい方、教えていただけないでしょうか