王甫と関羽
去年『吉川三国志』人物事典を作ったとき、えらい驚いたこと。
この人、王甫の話です。
王甫といえば、
・関羽配下として樊城の戦いに従い、
・呂蒙の策で荊州が陥落すると周倉と共に麦城に籠城し、
・関羽が討死したため城壁から身を投げて自害した
と、いう人物だと思ってました。
が、これが全部『演義』の創作。
正史の王甫は、『三国志』楊戯伝の『季漢輔臣賛』で僅かに記述される程度の人物で、それによれば夷陵の戦いで敗死したとあります。関羽との関わりはまったくなし*1。
さすがに『演義』での活躍全部が正史由来だとは言わずとも、一文字二文字程度は関羽との接点があるもんだと思い込んでいました。まさかゼロだったとは。お恥ずかしい。
僕がこんな思い込みをしていた理由にはふたつあります。
ひとつは正史準拠って言われる『蒼天航路』でも王甫が関羽配下だったから。
いまひとつは、『演義』で荊州の関羽配下として登場する人物のほとんどが、正史でも関羽との接点を持ってるからです。
具体的に挙げれば、廖化、関平、趙累、周倉、関興、傅士仁、糜芳、潘濬、馬良、伊籍、胡班、そして王甫を加えた12人が『演義』での荊州関羽チームとなります。
このうち、創作人物である周倉と胡班を除くと、正史中で関羽との接点がないのは馬良と伊籍と王甫。しかし馬良と伊籍はともに代表的な荊州人士ですし、関羽配下に置かれてもそう違和感はなかろうと思います。ただ王甫のみが、関羽の配下とされる理由が、しかも周倉と並んで殉死という重要な役柄に抜擢されるだけの理由が、正史からは見つけられないんです。
なぜ王甫は、夷陵で戦没という割と重要な要素を捨ててまでして、まるで無関係な関羽とこうも強い結び付けをされたのでしょうか?
関羽説話の成立初期に関わるものなのでしょうか