『建康実録』と乾隆帝と関公
「関忠義」という三字は忠義将軍関羽ということなんだろうか。初めて聞く。 #建康実録
— 六合 (@Rieg__Goh) 2014, 5月 19
これ見て(゚д゚)ハッとなりました。
どう見ても、乾隆帝のせいだと。
『清史稿』卷八十四 禮志三 關聖帝君にこんな一条があります。
乾隆三十三年、以壯繆原諡、未孚定論、更命神勇、加號靈佑。…… 四十一年、詔言、關帝力扶炎漢、志節懍然。陳壽撰志、多存私見。正史存諡、猶寓譏評、曷由傳信。今方録四庫書、改曰忠義。武英殿可刊此旨傳末、用彰大公。
関羽は景耀三(260)年、劉禅から「壯繆侯」と諡されていますが、後世にはこれが悪諡なのではという議論が起こりました。理由はけっこう複雑なのでおいときますが、とにかくその議論を受けた乾隆帝は、詔して関羽の諡号を「忠義侯」と改めるよう命じたのです。時に清代、関帝信仰の最盛期であります。
そして乾隆帝がすごいのは、単に諡号を壯繆侯から忠義侯に改めたのではなく、史書の記述を書き換えさせたことです。「今方録四庫書、改曰忠義。武英殿可刊此旨傳末」とあるように、目下編纂中だった『四庫全書』に『三国志』を収める際、もともと「追諡羽曰壯繆侯」とあった文章を「追諡羽曰忠義侯」と変えさせたのです。
つまりは「劉禅は関羽に壯繆侯と諡した。のち乾隆帝が改めて忠義侯とした」のではなく、「劉禅は関羽に忠義侯と諡した」ことこそが史実であると言っているに等しい。明確な歴史捏造です。乾隆帝という人のすさまじい豪腕ぶりと、『四庫全書』という事業が単なる文献収集ではなく、かくあるべきという観念に基づいた文化の構築であったことが垣間見れます。
そんなわけで、『建康実録』にもその影響が及んだんだろうと思います。
左は宋版の『建康実録』、右は『四庫全書』のやつ。
『四庫全書』所収は、孫権も劉備も差し置いて関羽のみを「関侯」「関忠義」と敬して諱を避けるのです。