宮城谷昌光『三国志読本』への批判 「新しい三国志」について
先週、宮城谷昌光の『三国志読本』をめぐって、ツイッターでもろもろの意見が飛び交いました。ひろおさんから始まり、僕が食いついたことで広まった話の様子は、ひろおさんの方でまとめられております。
http://3guozhi.jp/l/tn.html
その中で、議論が飛び火したきっかけが以下のツイートでした。
「これはなかなか怖いことなのです。読者はみな『三国演義』こそが『三国志』だと思っていますから。逆に私の書くほうが嘘だと思われるかもしれない。連載が始まったころは、三国志ファンをすべて敵にまわすのではないか、という恐怖感さえ抱いたほどです」(宮城谷昌光『三国志読本』)
— にゃも (@AkaNisin) June 13, 2014
これに対して、三国志ファンが正史と演義の区別を知らないかのような認識は古いとの批判が起こり、また一方では演義の再評価をする声も挙がりました。いずれもその通りだと思います。ただ、僕が怒りを感じたことはちょっと違います。
宮城谷昌光はこの箇所以外でも、自作が正史に準拠していることを強調し、そのことを以て「脱演義」、「新しい三国志」と考えているようでした。例の文章もその流れから発せられたものです。
しかし言わずもがな、演義のみに依らない作品は宮城谷以前から非常に"たくさん"あります。本当に面白い、かつ新しい「三国志文化」を切り開いてきた作品がいくつもあります。三国志ほど多種多様な作品が生まれた中国モノはなく、それこそが現代の三国志ブームを支える大きな要因となっているはずです。「孤立無援」とはまるでほど遠い。それらを一顧だにせず、知ったかのように自分の新しさばかりを吹聴する見当違いな姿勢が、僕は何より気に食わなかったのです。
そもそも、演義から離れ正史に忠実であることは、そんなに「新しい」ことでしょうか。演義は『通鑑』系統の史料を藍本として成立したものですので、いま宮城谷のように「ほぼ通鑑」であることは、その針を戻すかのようなもので、とくに深い興味はそそられません。
現在、日本や中国では、正史と演義を踏まえつつもその価値観に捉われない、現代的な感性と独自性が強く発揮された作品が現れています。
その現代的な独自性のひとつとして、諸葛亮像の変化が興味深いと思っています。従来の漢朝一尊の忠臣である諸葛亮とは異なる、民草を愛する平和主義的な諸葛亮です。
たとえば、陳舜臣『秘本三国志』や諏訪緑『時の地平線』の諸葛亮は、長い乱世を憂い、少しでも戦を止める手段として、天下三分の計に至ります。天下の三勢力を拮抗させることにより、逆に安定を生もうという発想です。
本来の三分計は、漢王朝による再統一を果たすための手段ですから、正史・演義に即せばこの解釈は誤りです。しかし陳舜臣さんも諏訪緑さんも相当に中国学の知識を持つ人なので、おそらく熟知の上でこの創作をしたのでしょう。漢のためにひたすら忠義を尽くす従来の諸葛亮とは一線を画する人物像です。
歴史文学の醍醐味は、作者が史料(史実)をどう料理したか、どんなフィクションを盛り込んだかを楽しむことにある、と思ってます。
『三国志演義』は明清当時の思想が濃く反映された作品であり、その思想を読み取ることに面白さがあります。となれば、現代の三国志作品がその中に現代の気風を盛り込むこと、それを読者が楽しむことも同じのはずです。
「脱演義」とは、単に正史か演義かの二元的な話ではありません。演義が人気を博した所以を踏まえ、その価値観を超えていくもの。晋代の陳寿とも明代の羅貫中とも違う、現代の感性が作る三国志作品。それが「脱演義」であり、三国志受容の歴史における「新しい三国志」であると僕は思っています。
その歴史の流れを知らない宮城谷昌光、その居場所がどこに位置づけられるのか、自分にはわかりません。