三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

関羽の末裔その1 【関永傑】

 関羽の子孫といえば日本では一般に、蜀漢滅亡のときに龐会によって滅ぼされたとされています。
 しかし―


關永傑、字人孟、鞏昌衞人。世官百戸。永傑好讀書、每遇忠義事、輒書之壁。狀貌奇偉、類世人所繪壯繆侯像。崇禎四年會試入都、與儕輩遊壯繆祠。有道士前曰、「昨夢神告、吾後人當有登第者、後且繼我忠義、可語之」。永傑愕然、頗自喜。

十五年二月、李自成數十萬眾來攻、永傑與知州侯君擢、郷官崔泌之、舉人王受爵等率士民分堞守。賊遣使説降、斬其頭、懸之城上。賊怒攻破之、永傑格殺數賊、身中亂刃而死。
 ――『明史』卷二百九十三 忠義傳五 關永傑


 関永傑は、字を人孟、鞏昌衞の人である。読書を好み、忠義のことを読むたびにそれを壁に書いたという。容貌は奇偉で、世間が描く壯繆侯像、つまり関羽にそっくりだった。
 崇禎四年、永傑は科挙のため上京した際、壯繆祠に詣でた。するとそこの道士が言うには、昨夜夢でお告げがあり、曰く「私の末裔が科挙に合格し、そして我が忠義を継ぐであろう。語るべし」と。永傑は驚き、非常に喜んだ。
 崇禎十五年、明朝を滅ぼす李自成の乱が起こると、関英傑は賊に降ることを拒み、ついに奮戦して討死した。