三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

日本最古、京都大興寺の関帝像について


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 以前にブログに書いた京都大興寺の関帝像を、先日の三国志学会の折に見てきました。
 通常は非公開なのだそうですが、NPO三国志フォーラムの清岡さんや教団さんがツアーを企画し、お寺さんとの交渉をしてくださったんで、スムーズに拝観できました。
 それにお寺さんが大変親切な方でして、快く拝観を許可したくださった上、これまた貴重なお話をたくさん教えてくださいました。
 皆さま本当にありがとうございました。

 さてその関帝像、とにかく興味深い点がたくさんあり、僕もいろいろ考えてみました。
 まず、いただいたパンフレットよりその解説文を紹介します。

 関帝像は、三国志演義関羽その人であり、関帝聖君ともいいます。中央には玉座に坐す関羽、左右の脇士は子の関平と関與(周倉)です。像高さは約八寸でいずれも玉眼入りの彩色木造です。
 作年代および作者は不詳ですが、関帝と刻まれた額には、南宋武幹謹書とあります。縁起に尊氏はこの像を寺の一字に祀るとあり、いわゆる関帝廟であったと考えられます。関帝廟は中国では商業や財力の神でありますが、当寺の関羽像は寺院を守護する伽藍神です。なお関羽は薬師を信仰していたと云うことから、関羽像は薬師如来を祀る寺に置かれることが多いようです。

 またお寺さんのお話から補足すると以下の通りです
 ・京大のある先生によれば、これは元の時代の像であろうとのこと
 ・もともと大興寺は禅寺であり、関羽信仰とは関係ない
  関帝像は足利尊氏が戦の守り神として中国から入手し、携行していたもの
  のちに何らかの縁で大興寺に安置させた
 ・「関帝」と刻まれた額もあるが、これは関帝像と共に中国から取り寄せたもの
 ・脇侍のふたりは関平関興らしい
  この像が作られたのは『演義』成立以前なので、周倉との可能性は低い
 ・関帝像の右手が、左手に比べやや握られる形になっている
  これは、関羽華佗に矢傷を手術させたとのエピソードを反映したものらしい
 ・江戸時代では、関帝像の脇に関帝籤(おみくじ)を置いた時期もあったらしい
 ・現存する関帝像としては日本最古だろう

 これは、なんと言うか、、、すごいです。
 えらい文物だと思います。
 そして同時にかなりきわどい話だとも思います。
 以下、長いですけど僕の感想をまとめました。



【年代について】

 足利尊氏(1305〜1358)が活躍した時代は、中国では元朝最末期です。
 「十四世紀前半の日本人が関帝像を持っていた」ことは、いろんな点で驚きでした。

関帝信仰の歴史として
 関羽に対する信仰は、唐代に伽藍神として祀られたことから始まり、宋代や元代では国家公認の祭祀が行われるなどかなり成熟していたと考えられます。『平話』や雑劇など、関帝信仰を踏まえた表現が文芸方面に見られ始めるのもこの時期からです。
 しかし、今日ほどの絶大な信仰対象として君臨するのはやはり明代後期以降、とくに清代からです。十四世紀では、まだ数多いる神々の一柱にすぎなかったんじゃないでしょうか。
 中国でもそうゆう状態なので、ましてや日本では。わざわざ海の向こうから取り寄せるほどの存在だったかというと、ちょっとピンときません。

○現存する関羽像として
 現存する関羽像・関羽画はほとんどが明代以降のものであり、それ以前では数えるくらいしかありません。現存最古の関帝像は、金代に刷られたとされる義勇武安王像です。元代ですと、僕が知ってるのは『三国志平話』の挿絵や『捜神広記』挿絵くらい。
 大興寺関帝像は日本最古のものだそうですが、世界的に見ても相当に古いんです。

三国志受容の歴史として
 陳寿三国志』自体の伝来は飛鳥時代後期に遡りますが、より本格的に愛好されるようになるのは江戸時代初期に『演義』が伝わって以降です。それ以前の受容は限定的で、たとえば『太平記』の一部に『三国志』の影響が見られる、などなど。
 また、『三国志』において関羽は一将軍に過ぎません。その活躍が大々的に描かれるのは『演義』ですが、『演義』の成立は尊氏からやや降った時期。あるいは『平話』が刷られた(1321〜1324)がほぼ尊氏に直撃ですが、しかし尊氏が見れたかどうかはかなり疑問です。
 尊氏は一体どういう理由で三国志に、しかも関羽に興味を抱いたのでしょうか。


☆このように尊氏の生きた十四世紀前半というのは、関帝信仰の面でも、現存資料の面でも、三国志受容の面でも空白の時代なのです。
 ゆえに大興寺関帝像は、その空白を埋める重要な資料なのですが……。

【造形について】

 『演義』でお馴染みのように、関帝の容貌には一種のテンプレがあります。誰しもが見ればすぐ関羽と分かるほど、そのイメージは強固です。
 しかしそれと比べると大興寺関帝像は、、、?
          

○眼
 一般的な関羽像は、「丹鳳眼」と呼ばれる、切れ長でつり上がった眼をしています。
 それと比べると大興寺関帝像は、切れ長ではありますけど、あまりつり上がってはいません。割合に穏やかな表情と言えます。

○眉
 一般的な関羽像は、「臥蚕眉」と呼ばれる、太くはっきりとした眉をしています。
 それと比べると大興寺関帝像の眉には、これという特徴は見られません。やや太めに見えないでもない程度で、一般的な関羽像の眉とはやはり異なります。

○顔色
 ご存じ、関羽といえば「重棗の如し」とも言われる赤ら顔で有名です。
 この点では大興寺関帝像も同じで、やや煤けて見づらいですけど、ちゃんと赤色に塗られていることが確認できました。

○ひげ
 これまたご存じ、「美髯公」の異名の通り、関羽と言えば長いひげです。しかし実はただひげが長いだけが関羽のひげではありません。鬚(あごひげ)、髭(くちひげ)、髯(ほおひげ)のすべてが長く、五筋にたなびく姿こそが「美髯」の所以です。
 それに比べ大興寺関帝像は、長いとも言えない鬚が一筋あるのみ。また、下顎全体が黒く塗られてますが、どうやらこれが髯を表現してるっぽい。どちらも一般的な関羽像のひげとは大きく異なります。
 それともうひとつ、大興寺関帝像をよく見たところ、鬚の付け根に継ぎ目らしきものがあることに気が付きました。一度折れた鬚を修理した痕跡か。
 もしかしたら、後から付け足ししたとか?

○そのほか
 何かの定型句があるわけではないのですが、一般的な関帝像の場合、顔の輪郭はやや縦長くらいのイメージがあります。
 一方で大興寺関帝像は、丸顔というか頬の張った輪郭をしています。この点も一般の関帝像とは違う気がしました。


☆以上のように、大興寺関帝像は一般的な関帝像の容貌とはかなり違ってます。これを関帝とわかる人が果たして、、、ってくらい、まるで関帝の面影が見られません。
 あるいは、大興寺関帝像の制作当時はまだ関羽のイメージが確定してなかったのかも、と考えましたが、現存最古たる金代の関帝画の時点でもう現代とほぼ同じ姿をしていますし、ほかの『平話』や『捜神広記』でも同様です。大興寺関帝像だけがまったく異色なのです。


【脇侍について】

 現在の関帝の脇侍は100パーセント周倉関平で決まっていますが、元代ではまだ周倉の存在が確立してなかったと、すでに諸々の指摘があります*2
 大興寺関帝像にも周倉らしき人物(黒顔でどんぐり眼)はおらず、若い武人がふたりあるのみ。伝承によれば関平関興らしいですが、それを根拠づけるものは残念ながらありません。
 周倉がいない以上、関平関興というのは妥当な推測ではありますけど*3、しかし両者がとくに誰でもないただの童子である可能性も捨てきれません。
               


【額について】

 先述の通り、大興寺関帝像には、「関帝」と刻まれた額が付属しています。
 これがすこぶる怪しい。
 伝承によれば関帝像と一緒に取り寄せた=尊氏時代のものとのことですが、その頃はまだ「関帝」という称号はなかったはずなのです。
 関羽は代々の国家から封号を追贈されており、そのランクは侯→公→王→帝と次第に上昇しています。
 その中で、関羽が初めて「帝」となったのは明の万暦帝が贈った「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」の時(たぶん...)。大興寺関帝像の制作当時は、元朝が贈った「顕霊義勇武安英済王」と、未だに王位でした。
 これが正しければ、少なくとも額は尊氏当時のものではありません。伝承によれば江戸時代、像の横に関帝籤を置いて宣伝してた時期があるそうなので、そのタイミングで作ったものなのかも。

【ホンモノかニセモノか】

 要するに大興寺関帝像は、「関帝三国志の歴史では空白に近い時期に伝来した」とされる「関羽とは似ても似つかない」木像であるわけです。
 正直、これはかなり苦しいのでは、、、?
 わざわざ見せていただいた手前、こう言うのは申し訳ないのですけど、、、
 でもどうでしょうか。
 この像が関帝であることを示しているのは、ただ伝承のみです。
 伝承には間違いも付き物ですし、たとえば大興寺に伝わっていたとある木像が後世に関帝と誤認された、、、って風に見るのはいかがでしょうか*4
 江戸時代中期の『山城名勝誌』を見る限り、少なくとも当時にはこれが関帝像だと認知されていたようです*5。江戸時代ならば、中国での関帝信仰の盛り上がり、日本での三国志人気の盛り上がりを考えても、割合に自然に思えます。江戸時代に関帝籤を像の脇に置いたという伝承とも一致しますし。

 ただ、関帝信仰はもとより民間のものです。ゆえに関帝の形態も非常な多様性を持っており、常識が通らないこともしばしばです。
 また、たとい大興寺関帝像が"ニセモノ"だとしても、偽即無価値では決してなく、むしろそのことにより新たな関心も湧き上がります。日本における三国志関羽受容として、この木像が尊重されるべきことに変わりはありません。
 その正体に近づくためには、さらなる勉強が必要だと思いました。


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【9/24追記】
 あれからずっと、この大興寺関帝像の価値について考えてました。
 近世宗教は門外漢なもので、まったく見当違いかもしれないのですけど、たぶん以下の3点が言えるんじゃないかなと思いました。

 (1)元代の作という世界でも現存する例が少ない時期の関帝像である
 (2)尊氏蔵という点が、本格的な三国志関帝受容の始まりとされる江戸初期を大きく遡る
 (3)中国文化との関連が低い、日本の宗教施設における関帝祭祀の事例である

 今回の記事で、僕は「これが本当に関帝像として制作されたのか(顔が全然違うじゃないか)」「本当に尊氏が関帝像と見なしていたのか(尊氏の時代は三国志受容自体が未熟だ)」という2点を疑問としていました。ゆえに(1)と(2)の価値も本当に成り立つかはわかりません。
 でも『山城名勝誌』の記述から、少なくとも江戸時代には大興寺関帝が祀られていたことは事実です。これにより(3)が言えるわけですが、これだけでも十分すごいことなんじゃないでしょうか。
 僕の知ってる限り、日本において関帝を祀っているところは、チャイナタウン中の関帝廟か、黄檗宗をはじめとする唐寺か、媽祖廟や道観(道教寺院)か。どれも中国文化に基づく宗教施設です。つまり関帝はあくまで中国諸宗教の神格であり、日本の宗教体系に組み込まれることは(たぶん)なかったということです。
 しかし大興寺だけがその例外です。日本の禅寺であるのに、どういう所縁でか関帝を祀っている。
 もしこの見方で問題ないとするならば、大興寺は日本における関帝信仰として大変貴重な事例なのでは、と思った次第です。どうでしょうか。


【2017/9/5追記】
 あのあといろいろ知るようになって、この関帝像の印象もずいぶん変わりました。
 とくに関羽足利尊氏の関係ですけど、これはもう僕が全然知らなかっただけで、実は有名な話だったんですね。
 狩野直禎先生の本*7などにも、「わが国では足利尊氏が吉夢をみて、中国から関羽像を求めて、京都の大興寺に安置したのが、関羽を祭る始まりであるようだ。足利尊氏天竜寺船を出して、中国の元と通交をしていた」ってばっちり書いてありました。
 で、田中尚子先生の研究*8によると、15世紀半ばの文献にすでに尊氏の関帝信仰にまつわる逸話が見られるんだそうです。しかもそれ、上記の『山城名勝志』や大興寺縁起とはまた違う内容でした。おかしいなあ…田中先生の本はずっと前から読んでたんだけどなあ…
 つまり、日本での関帝信仰の受容が江戸時代より遡るなんて聞いたことないぞっていうのが僕の疑問だったわけですが、全然そんなことなくて、少なくともその文献が成立した室町中期には日本人は関帝信仰を知識としては知っていたのです。中世の情報伝達力を甘く見たな。
 尊氏が関羽を本当に祀っていたか、大興寺の木像が本当に関羽なのかは依然僕にはわかりません。でも尊氏と関羽を結びつける逸話が尊氏没後まもなく記されていること、大興寺が少なくともそうした伝承を背景にして関帝を祀っていることがわかって、なんと言うか割と腑に落ちちゃった感じです。
 twitterで小耳に挟んだとこでは、どうも尊氏ゆかりの綾部の安国寺にも関羽像があるらしいですしね。
 

*1:画像引用元 http://www.asahi.com/and_M/information/gallery/20130329syaji/07.html

*2:たとえば、二階堂善弘関帝信仰と周倉」など。袴田郁一「『全相平話三國志』人物事典」でも少し触れました

*3:前注掲の二階堂先生の論文は、『捜神広記』の挿絵とも絡めて、これを関平関興とされています。ただし、やや無批判に大興寺関帝像を資料として用いている感があるので、僕はちょっと疑問です

*4:こんなに一般の関羽像と容貌が違っているのに誤認することがあるだろうか、とも思いましたが、よりド派手に間違った例として、黄檗山万福寺の華光菩薩像があります。詳細は二階堂先生のページを参照 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/manpukuji.html

*5:『山城名勝誌』卷十三下 愛宕郡部に、芝薬師堂(大興寺)の関羽像に関する記述があります

*6:李福清『關公傳説與三國演義』表紙ソデから拝借

*7:狩野直禎『「三国志」の知恵』(講談社現代新書、1985年)。

*8:田中尚子「関羽顕聖譚の受容 ―『碧山日録』を端緒として」(『国語と国文学』82−9、2005年。『三国志享受史論考』〈汲古書院、2007年〉所収)。