三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

袁術の皇后

 九州春秋曰、司隸馮方女、國色也。避亂揚州、術登城見而悦之、遂納焉、甚愛幸。諸婦害其寵、語之曰、將軍貴人有志節、當時時涕泣憂愁、必長見敬重。馮氏以為然、後見術輒垂涕、術以有心志、益哀之。諸婦人因共絞殺、懸之廁梁、術誠以為不得志而死、乃厚加殯斂。
―『三国志』巻六 袁術伝裴注

 馮方の娘は、大変な美人だったので、袁術に見初められてその後宮に入り、大変な寵愛を受けました。
 しかしほかの夫人たちはそんな馮氏を妬み、こっそり彼女へ、「袁将軍と合う時は涙を流して、悲しげな風をすればますます気に入られますよ」と助言。馮氏がその通りにすると、袁術は彼女をますますかわいそうに思います。
 そうしたタイミングで、夫人たちは馮氏を縊り殺し、首を吊ったように見せかけたので、袁術は彼女の自殺を疑わず、夫人たちはまんまと寵愛深い馮氏を亡き者にできたのでした。
 『三国志武帝紀の注に引かれている、曹操のいわゆる「己亥令」に、「袁術が皇帝を名乗ると、……ふたりの夫人が皇后の地位を争った」と言及される部分がありますので、これもそうした皇帝袁術の皇后をめぐる争いなのでしょうね。

 ところが演義の方だと、馮氏はめでたく袁術の皇后になってるんです。

  遂建號仲氏、立臺省等官、乘龍鳳輦、祀南北郊、立馮方女為后、立子為東宮
  かくして国号を仲とし、台・省の官制を立て、龍輦・鳳輦に乗り、南郊・北郊で祭祀をし、馮方の娘を立てて皇后とし、子を立てて皇太子とした。
―『三国志演義』第十七回

 演義が、史実で皇后になってない人を皇后にする例は、たぶんほかでは糜夫人くらいなはずです。よほど演義は馮氏のことを気に入ってたんですね。
 悲運の馮氏は思わぬかたちで報われました。
 よかったね。