三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

「三国之見龍卸甲(邦題:三国志)」を実況せんとす

(06.44)「常山はここだよ」と得意げに説明する羅平安の地図、常山が長江沿いにある。
 ………。
 まあ、それはそれとして趙雲たちが今いるのは青州らしいです。ってことは、今は官渡の戦いの直前かな?

(08.17)羅平安の地図、ところどころにメモ書きがあるんですけど、洛陽に「董卓が洛陽に進軍し、宦官を誅殺した。兵は五万である(董卓進洛陽、誅宦官。兵五萬也)」とか、常山に「俺たちはここに生まれた。曹操を討ち、漢室を再興する(吾等生於此。征伐討伐曹、匡扶漢室)」とかあるのはともかく、赤壁に「曹操赤壁に駐屯して水軍を訓練した(曹屯赤壁、□練水兵)」とか、長坂に「主公の阿斗を助けた(救得主公□阿斗)」とか明らかに未来のことが書いてある。ガバガバすぎない?

(12.50)よもや曹操の手の者かと思った胡散臭い男は、なんと諸葛亮でした。えらく胡乱で陰気な孔明ですけど。新しすぎる!あと、趙雲が参入した頃は諸葛亮まだいないはずじゃ。

(14.36)味方の勝利を確信し、「次なる戦地に指南に行かねば」と言って去る諸葛亮。戦場を転々として軍略を授ける軍師って、なんか墨家みたいです。

(18.00)これが長坂坡の戦いだったってことがやっと明かされます。全然官渡の戦いじゃなかった。青州で戦ってた話はどうした。時代考証は投げ捨てるものではない…

(18.00)本作のカギになる鳳鳴山が登場。『演義』では、北伐で趙雲が韓徳らを破ったところです。つまり長坂とは全然違うところです。考証は投げ捨てるもの。

(18.04)本作のカギとなる仏像が登場。でも三国時代には仏教はまだそんなに広まってないはず。考証など趙子龍の前にはゴミクズ同然だ!

(22.40)趙雲がかっこよすぎです。長柄武器のアクションはやっぱいいですね。たまんないです。趙雲を兄弟と認める関羽張飛がまたかっこいい。短い登場ですけど、しっかり印象的なキャラクターになってます。

(32.26)ここで青詇が出てくるのかー。

(34.25)影絵の実演は初めて見ました。

(37.07)光のあたり具合のせいか、ちょいちょいアンディ・ラウミスター鈴井貴之に見える。

(38.35)エンディングのクレジットによると、この女の子は軟児というそうです。たぶん民間伝承に由来する趙雲の妻、孫軟児が元ネタです。

(41.48)劉備の即位や五虎大将任命の流れは正史とも演義とも微妙に違いますけど、かっこよくまとまってるからいい感じです。考証はおいてきた。あいつはこの戦いについてこれない。

(42.37)すごい劉禅っぽい劉禅劉禅ってどれも同じ人が演じてるんじゃないかってくらい、いつもそっくりです。

(44.33)趙雲のかっこよさと言ったら。いや趙雲だけでなく、この作品ではみんなすごくいい老け方をしてます。

(46.51)諸葛亮趙雲に秘策入りの小袋を授けるのは、『演義』第五十三回がモチーフですね。劉備の嫁取りに同行する趙雲に授け、見事にその窮地を救ったあれです。

(54.40)やけにヒゲが大胆な韓徳が登場。韓徳は、『演義』では北伐で四人の息子ともども趙雲に蹴散らされた人です。かませ犬です。ですが、この韓徳がやたらとかっこいい。なにせ演じるのは「三国志 three kingdom」で関羽を演じた于榮光その人。いやしかし、関羽の時よりもずっとかっこいい。

(56.35)四兄弟を倒すシーンはけっこう『演義』に忠実です。最期の一人(たぶん次男の韓瑶)だけが絞め殺されてるのも、『演義』で韓瑶だけが生け捕りにされたことをモチーフにしてるんだと思います。

(57.25)やたら荒々しい趙雲の副官、なんと訒芝でした。魏延あたりかなと思ってたんですけど。いやたしかに、北伐での趙雲の副官と言えば当然訒芝ですよね。でも全然気づかなかった。この人が孫権と交渉するところが全然想像できない。

(59.08)何の因果か、ふたたび鳳鳴山に戻ってきてしまった趙雲。本作の趙雲にとって鳳鳴山ははじまりの地。出発の地にふたたび戻ってきた、ということを強調するために、あえて冒頭の長坂坡の戦いで鳳鳴山を出したわけですね。考証?犬の餌にでもしろ。

(60.25)授けられた秘策が、まさか趙雲を囮にするためのものだったなんて。もちろん、正史でも『演義』でもこの時の趙雲は陽動担当なので、本作の展開もそれをなぞるものです。でもさっき書いたように、諸葛亮の秘策袋の元ネタは趙雲の窮地を救うためのものでしたから、まさか趙雲を騙してたとは想像してなくて。一瞬展開が理解できないくらいびっくりしました。趙雲だけでなく視聴者まで裏切るとは、諸葛亮……やはり天才か。

(61.53)冒頭のシーンでの「勝利のためには捨て駒も必要だ」という諸葛亮の台詞は、この伏線だったんですね。

(62.07)諸葛亮に欺かれ、今まで戦ってきたことの意味すら見失う趙雲。意外なくらいショックを受けてます。羅平安の言う通り、諸葛亮は最初からそんなやつだったのに。けどこの趙雲の迷いは、ラストシーンに向けてストーリー的に必要な迷いと言えます。

(66.06)本作の悪玉にしてヒロインの曹嬰。曹叡や夏侯楙あたりをモデルにしたキャラクターでしょう。毛皮があったかそう。

(71.44)ここで青詇が出てくるのか!

(75.32)関興たちはすでに負けていた。『演義』だと関興張苞が罠に陥った趙雲を助けるんで、同じようにラストには助けにくるもんだと思ってたのに。びっくり。

(76.12)公主が戦うのはいいとして、大刀なんていう重量武器を選ばせるのがすごい。そしてやっぱりアクション重点な作品だけあって、一騎討ちの迫力は同時期の「三国志 three kingdom」や「レッドクリフ」と比べても抜き出てます。

(77.59)あれ、てっきり密通者かと思ったら、ここで助太刀するのか羅平安。

(78.08)矢も射れないのか羅平安。

(78.11)弓なんて渡してどう使えというのか羅平安。

(78.21)弓とはこうやって使うのだ。

(78.43)常山いい加減にしろよ…

(83.22)やっぱミスターに似てるよなあ…

(89.28)「寧ろ我をして天下の人に負かしむれども、天下の人をして我に背かせじ」。ここで曹操の言葉を持ってくるのが最高です。曹嬰はオリジナルキャラクターですけど、曹操の孫としてすごくいい感じのキャラにデザインされてると思います。曹操の生き様を継承しつつ、同時にそれが彼女のトラウマにもなってるところが、とくに。ベタって言ったらベタなのかもしれないですけど。

(89.35)演義』ではただのかませ犬だった韓徳を、ここまでのキャラクターにするんですねえ。すごいですねえ。動揺する韓徳がやがてすべてを納得するまでの表情の変化がそれは本当によかったです。同じように大将に欺かれて茫然とするしかなかった趙雲たちとのきれいな対照になってました。魏の将軍としてこれ以上ない描かれ方だと思います。

(93.16)「自分で運命を切り開けると思ったが、天が定めた運命を生きていたにすぎない。勝利も敗北も無意味だった」と言う趙雲。本作のメインテーマです。仏教的な無常観っぽいです。冒頭から繰り返し仏像が映されてきた演出もこのためですね。

(93.55)そして劉備から賜った鎧をついに脱ぐ趙雲。それを脱がすのはかつてそれを趙雲にまとわせた羅平安。「輪」というキーワードの通り、後半のストーリーは前半のそれを逆になぞるような構成になってます。
 そして、さっきは「出立の頃からなにも変わっていなかった」と嘆いていた趙雲が、ここではそれをありのままに受けいれるに至っています。迷いはもうありません。悟ってます。劉備の鎧を脱ぐのはその象徴です。
 また、ここで映される「一切有為法、如夢幻泡影……」という文言は、『金剛般若経』が典拠であり、「空」の思想を表現する代表的な箇所です。仏教わかんないんでググりました。でも『金剛般若経』は三国時代にはまだ漢訳されていないはずでは?あなたがたにはっきり言っておく。そう思っていたあなたは反省して頂きたい。歴史ドラマは時代考証をするためにあるものではない。ゲーム脳になっていないだろうか?家族と話をしているだろうか?

(97.46)三国を統一したのは魏でも呉でも蜀でもない、晋だった。これも無常です。そして「古今の多少の事はすべて笑談の中に付す」は、『演義』冒頭の言葉。趙雲の言う「輪」のように、本作のラストは『演義』冒頭で締めくくられるのでした。

 アクションのかっこよさ、ビジュアルの美しさは、今まで観た三国志の映像作品のなかでも群を抜いてました。趙雲のかっこよさは言わずもがな、曹嬰・韓徳がまた光ってましたね。出番は少ないですけど、関羽張飛も渋い。本作があまりに話題にならないせいか、そういう見栄えの面は微妙なのかなと何となく思ってたので、かなりびっくりしました。
 三国志的なところで言えば、ストーリーやキャラクターの面々をはじめオリジナリティが非常に強いですが、一方では随所に『演義』を踏まえた演出・表現も見え隠れしてます。それに、「運命とは」っていうメインテーマがおもしろいですね。
 さっき趙雲が言った「人は天が定めた運命を生きるにすぎない」という運命観は、『演義』にも近いものがあります。『演義』は、運命の存在を肯定します。と同時に、その運命のもとで人とはどのように生きるべきなのか、ということを追い求める作品でもあります。たとえば、劉備は漢の滅亡を必然と言われながらも、「それでも私は漢の末裔ですから、漢をお救いせずにはいられません」と答えます。また諸葛亮は、天が漢に味方しないことを予見しつつも、なお漢のために戦い続けることを死ぬまでやめませんでした。
 運命の存在を肯定することと、人としての道義(忠とか義とか)を重視することは、一見するとなんかちぐはぐなようにも思えますが、これはつまり天に普遍的な摂理(運命)があるのと同じように、人にも普遍的な道義(道徳)があるはずだ、という朱子学の思想が根底にあるためです。…たぶん。
 これに比べると、本作はすごく仏教っぽいです。運命の存在を受けいれることそれ自体を重視してるところに、そんな感じがあります。そしてそれを受けいれたあとの趙雲の台詞も、「自分は常勝将軍などではない」「勝利があれば敗北がある」「趙雲の人生は大きな輪をぐるりと描いたようなものだ」など、仏教的な無常観や「空」をイメージさせます。作中の演出でも何度も仏像が強調されてましたしね。
 『演義』とはまた別の方向から三国志にアプローチした作品という印象であり、僕はすごくよかったと思いました。