三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

正しいなにかなんてない

 しあさってから、上野の東京国立博物館三国志展が始まりますね。

 こう言ってはバチあたりなのだけど、僕が思っているよりはるかに、この展覧会は世間では大きな注目を集めているらしい。実際に見てはないけどばんばん広告出してるそうだし、書店では三国志関係の書籍や雑誌がはっきりわかるくらいに増えている。うーん、ちょっと意外だった。

 しかしそのおかげで、僕もこの2ヶ月でいろんなお仕事を手伝わせてもらいました。これまでやらしてもらってきたのとおんなじくらいの仕事量を、2ヶ月間でどさっとやった感じです。ありがたいことです。どこかで見かけたらよろしくお願いします。

 

・『ユリイカ』2019.6月号

 執筆:「新しいファンのための「三国志」案内」

・『時空旅人』2019.7月号

 執筆:「日本の関帝信仰を巡る」 

・渡邉義浩監修『史実としての三国志』(宝島社新書)

・『歴史探訪』Vol.4

 執筆:「日本に残る関帝廟関帝信仰」

三国志学会監修『曹操』(山川出版社

 執筆軍事面での曹操の評価はどうだったのか?」

 

  どれも一所懸命にやって、とくに日本の三国志作品を好き勝手に紹介させてもらった『ユリイカ』の記事なんかは個人的にもとても楽しかったのだけど、宣伝するヒマもなく、完全にタイミングを逃がしてしまった。たぶんもうとっくに次号が並んじゃっている。残念。

 ただ、このなかでひとつだけ、たぶんもう書店に出てると思うけど、『歴史探訪』に書いた日本の関帝廟の記事を宣伝させてください。なしてこれだけかと言うと、この記事がとても大きな過ちを犯しているからです。

 

 この記事では、日本各地の関帝廟を紹介するなかで、神戸関帝廟に触れてこんな感じのことを書いた。文章は変えているけど大意はそのまま。

 神戸関帝廟は、繁華街である神戸南京町とは離れた住宅地にある。中華街のど真ん中にある横浜関帝廟のイメージとは大きく違う。なぜ中華街ではないところに関帝廟があるのか。それは関帝廟の本質的な役割が、華僑の福利施設であるためである。つまり生活空間の一部なので、華僑の住む住宅地にあるのが正しい。むしろ横浜のような観光地化された関帝廟の方が珍しい。

 問題は最後のふたつの文章、とくに「関帝廟は住宅地にあるのが正しい」と言っていることにある。

 問題は2点。

 ひとつは、関帝廟が住宅地にあることが正しいのかどうかである。ちゃんと確認してないのでわからないけど、たぶん住宅地でないところにある関帝廟もかなり多いはずだ。「生活空間の一部なので、住宅地にあって不思議はない」と書くべきである。

 問題のふたつめ。よしんば、住宅地にあることが関帝廟のスタンダードだったとしても、それを「正しい」と表現することにある。道義的にはこちらの方がずっと問題は重い。

 ある事例を「正しい」と評価することは、逆に言えばそうではない事例を「正しくない」と否定することと同義である。実際、この記事を読むと、関帝廟として正しいのは神戸のほう、正しくないのは横浜のほうという風に読める。少なくとも僕には。

 関帝信仰のような現存する伝統文化を対象に研究する者は、研究対象に「正しい」「正しくない」と評価を下すこと、つまり特定の文化・習慣の在りようを否定することを強く強く戒める。

 僕が聴いた話を具体例にしよう。

 ある高名な媽祖信仰の研究者が、日本のどこかの媽祖祭りを見て、それが本場の媽祖祭祀から見て"間違っている"と思った。そこで彼はそのお祭りを"正しく"改めさせた。結果、その地域の固有の媽祖信仰のあり方が失われてしまったという。

 この話が具体的にどの研究者を指しているのか、そもそも実話なのかどうかもわからない。尾ひれがついている可能性もある。一種の寓話と考えたほうがいいかもしれない。つまり、研究者が高度な専門知識を軽率に振りかざし、文化の現場を「正しくない」と否定・介入することはあってはならない。それは時として文化を致命的に損なうことになる、という教訓である。

 僕もまた、文化の当事者を可能な限り尊重するのが文化研究の基本中の基本だと考える。そういう風に教えられてきた。もちろん僕は、関帝信仰の研究者じゃない。仕事をしてお金をもらったのにこう言うのも何だけど、せいぜい好事家にすぎない。しかし好事家にすぎなくても――もしくは好事家だからこそ、こういう守るべき研究精神については偉そうに振りかざしていきたいと思っている。

 そのため、僕のこの記事に含まれた「正しい」という3文字の表現は、たとえそれが現実的にはほとんど影響力を持たないとしても、それでも犯してはならない大きな過ちだと思う。なんで「正しい」なんて書かれているのかわからない。憶えている限りでは、僕の手が離れた時点でこんな表現はなかった。どこかで付け足されたのか。あるいは僕の見落としもあったのか。

 ただ、無責任な物言いになってしまうけど、正直その原因についてはそんなに気にしてない。僕はこの過ちを見つけた時、ただ「ブログに書くことができたな」と思った。もしこれが他の人の文章だったら、さすがにここまで強くは言えない。けれど自分の文章に対してなら遠慮なく言いたいことが言える。

 文化や信仰に正しいなにかなんてない。関帝信仰に興味を持ってから僕は一貫してそう考えてきた。なので今回の記事では、関帝廟がテーマであるなかであえて黄檗宗萬福寺関帝信仰を取り上げている。

 過ちはあるけど、もし読んでもらえたら、とても幸いです。