全訳出来!(予定)
こんにちは。
ここ最近、のっぴきならない理由で、汲古書院のホームページをちらちら覗いてはそわそわする日々を送っていたのですが、そこでついさっき、思わず声を上げてしまうくらいびっくりなことを見っけました。ほんとに「おぅわっ」って声が出ました(そしてそれはバイトの休憩中でした)。
書名 | 詳注全訳水滸伝 第一巻 |
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概要 | ◎原文の味わいをいかに伝えるか。渾身の『水滸伝』訳注書発刊! |
ジャンル | 中国古典(文学) 中国古典(文学) > 唐宋元 中国古典(文学) > 明清 |
著者 | 小松 謙 訳 |
ちょっとびっくりすぎて言葉がうまく出ません。
そわそわの原因だった『全譯三國志 魏書(一)』刊行決定が一瞬霧散してしまったくらいです。いやこっちだって負けないくらいの渾身のつもりではあるのですけど。そう、そういう次第で、僕が参加した本がそのうち出るのです。すごく嬉しいです。よろしくお願いします。
いや、しかし、それはそれとして、小松謙先生による『水滸伝』の全訳、それが「詳注」を堂々と看板に掲げ、しかも金聖歎の批評まで全て訳しているというこのインパクトたるや。
とうとうこんな本が出るんだ、とファンとしてはにわかには信じられない想いです。
まさしく小松先生が言うように、こうした作品は古典的小説として長年きわめて深く重んじられてきた一方で、「厳密な校訂を加え、詳細な注釈を加える」ような"本気で読まれる"機会には恵まれてきませんでした。
それは、「所詮は白話文学」という意識が根強くあったことも一因なのでしょうが、ただそれ以上に、「白話小説だからこそ手ごわく、容易に手が出せない」という畏敬の念があったからではとも僕は想像しています。
白話小説は、それが市井の文芸であるがゆえに、それを生んだ時代と社会の常識、風俗、通念、慣習、言葉、流行を知らないことには――記録に残りづらく現在では把握困難なそれらを知らないことには――決して本当の意味での理解はできないのです(と偉い専門家の人が言っていました)。
その意味で、白話小説を読み切ることは、経書やいわゆる「文学」を読むことに匹敵する大仕事……いや後述のハンデも加味するとそれ以上に険しい道のりなのかもしれません(と僕は想像しています)。
『水滸伝』には、吉川幸次郎訳や駒田信二訳などの名訳と謳われるものがすでに存在します。
けど、たとえこれらの名訳を以てしても、僕たちのような一般層が『水滸伝』を読むのは、「ほとんど不可能」と「ものすごく困難」の中間、それも限りなく後者に近い。
さっき書いたことのと同じく、作品の背景にある時代の文化と価値観がわからないので、人物の心情とか、編者の表現の意図とか、出来事の理非とか、そういう機微を理解することができず、本当の意味での読むこと(理解すること)ができないのです。もちろん、できないことはできないと割り切って、自分の感性を恃みに作品を味わうという手もないでもないのですが、でもそれは作品を「理解すること」とはまた別の受容スタイルです。古典て、すっごく読むのが難しいのです。
なので、僕らはただ待つことしかできませんでした。
「原文の雰囲気を可能な限り移した自然な日本語訳」と「原文のすべての箇所に対する解釈を明示した詳細な注釈」がセットになった訳注――それは最前線の研究者をしても相当に困難なことだと聞きました――が奇跡的に現れるのを、ただ待つことの他にないのです。
ね、人前で叫び声をあげてしまうのもやむなし、と思いませんか?(思いますね?)(思いましたね?)
前に、専門家の先生がふと漏らしたのを聞いたのですけど、白話小説研究というものはようやく最近になって本格的に始まったばかりの、それこそ千年の蓄積がある経学に比べたら、本当にこれからの若い学問なんだそうです。
テキストの整理がようやくそれなりに目途がついて、ようやく読みが始められるようになったばかりの分野。
なので、「ついにこんな本が!」と思うと同時に、それ以上に「もうこんな本が!」という気持ちがより強いです。
すごいですねぇ、本当に。しかも著名な白話小説ではとくに難しいと聞く『水滸伝』で。
ただ……
こういうが刊行されるのを見てしまうと知ってしまうと、どうしても望蜀の想いが湧き上がってしまうわけで。
なので、ぜひ、いつか、『三国志演義』でこういう本を。