曹魏皇族の県王
曹魏の諸侯は、221年に公であったこと、224年〜231年に県王であったことを除けば、原則として一律で郡王に封建されています。ですが一部ではその原則から外されて県王・公・侯などに留められた者がいました。
このように爵位によって諸侯の間に格差を作るということは後漢の頃には見られなかった、たぶん曹魏独自の試みではないかと思います。
今回は県王を挙げてみます。
(1)曹楷・・・中牟県王(223)
曹楷は223年に父曹彰が亡くなったことによって継いでいましたが、そこで県王に降格されています。やはり父親の最期が穏やかでなかったことを窺わせます。
(2)曹植・・・鄄城県王(222)・雍丘県王(223〜)
曹植はいつもどおり。
(3)曹炳・・・蕭県王(234〜)
曹炳は早世した(魏建国以前になくなった)曹熊の実子ですが、若年か何故かはわかりませんが、この234年まで爵位を継ぐことを許されていませんでした。
(4)曹琬・・・豊県王(254〜)
曹琬は曹昂の養子ですが、長らく公どまりでした。
(5)曹潜・・・相県王(233〜)
曹潜は曹炳と同様、曹鑠の実子でありながら長らく爵位を継ぐことを許されていませんでした。
(6)曹袞・・・賛県王(223〜)
曹袞は諸侯の中でも、ことさら好意的評価をされている人物ですが、何故か黄初五年の降格に先駆けること1年、北海郡王から県王に改封されています。それらしい様子まったく読みとれないので、誤字でしょうか?
(7)曹茂・・・曲陽県王(234〜243)・楽陵県王(244〜)
皇子でありながら魏代生涯を通じて県王である唯一の例です。文帝紀に王封建されなかった唯一の兄弟として知られている曹茂ですが、王昇格以降も依然として諸王と格差が設けられていたのです。
(8)曹尋・・・賛県王(235〜)
曹尋もまた曹潜・曹炳と同様に、父曹協(明帝の兄)の後をなかなか継がせてもらえなかった人物です。
さて曹熊・曹鑠・曹協はいずれも早世していますが、(1)実子がいながら長らく継承を許されなかった、(2)後継者がいなくなると国を除かれた(他家からの紹封をしてもらえない)、(3)県王どまり、という差別を受けています。彼らがいずれも文帝(明帝)と兄弟の序列が近しい(ないしは"格上")ことと何か関係しているのでしょうか?
(9)曹賛・・・饒安県王(238〜245)・文安県王(246〜)
曹賛は曹蕤の養子ですが、継いだ当初は公どまりでした。
(10)曹温・・・魯陽県王(232〜)
曹温は曹邕の養子になりますが、何故県王にとどまっているのか理由がまったくわかりません。実兄の曹悌が梁王であること、232年の改封であることなど郡王に封じられるべき状況にあるはずなのですが・・・
以上をおおよそに分類するとこのようになるかと思います。
A.初封者が早世している
(3)・(4)・(5)・(8)
B.養子相続
(3)・(9)・(10)
C.なんらかの処罰や差別
(1)・(2)・(7)
D.不明
(6)
やはり「早世」「養子相続」が理由として多くを占めているようです。
早世+養子相続であった曹昂が王位に至っている点は、250年代まで待たされたとはいえ、流石の例外でしょうか。