2012-01-01から1年間の記事一覧
以前の記事で、張飛の蛇矛が「曲がりくねった」状態になるのは近現代になってからであるということ、『絵本通俗三国志』の蛇矛が今の形とは全然似ても似つかないことを書きました。 「三国与太噺」‐丈八蛇矛の分かればな 『絵本通俗三国志』は近世近代の「三…
国立博物館に行ったその足で、今月8日、僕は国会図書館の関西館にて開催されていた展示「時空をかける三国志」を観に行きました。 国会図書館が所蔵する「三国志」を、一列に並べたというこの展示。殊に、普段あまり注目されることのない日本の「三国志」に…
最近疲れがとれない・・・。 しっかり寝ても昨日の疲労が残っちゃう・・・。 みなさんもそんなことありませんか? そういう時は、家でゆっくりもいいですけど、外に出かけて気分転換ってのも大事なんですよ。 そこで僕は「中国 王朝の至宝展」! 緑豊かな上…
今日の授業で見学した図書館におもしろいものがあったので。 こちらの浮世絵です。 画像はこちらの早稲田さんから引っ張らせていただきました。詳細がリンク先にあるのでご覧ください。また、こちらの成田屋さんのページにも紹介がありました。 いわゆる役者…
貂蝉って人は、もともと民間伝承出身で、しかも『三国志演義』でもって大きく取り上げられたということも加わって、作品によっていろんな人物像のバリエーションを持ってる人です。漢の忠臣であったり、呂布を慕う女性であったり、また関羽と深い仲になった…
もうひとつ、龐徳の人柄を考える上ではこの件も興味深いです。曹操への忠義を示すため「蜀の兄嫁気に入らないから殺したった。だから兄とはつながりは無い」と殺人告白する演義龐徳さんはかなりな危険人物。— 穀潰さん (@gokutubusi354) 9月 29, 2012 作中、…
こないだ、龐徳が「毛宗崗本」にて思わぬ酷評をされていたことを書きました。 ―『三国志演義』毛宗崗本における龐徳評 そいでその記事は、こんな感じにコメントを頂戴して、まとめに入れていただいたりもしました。どうもありがとうございます。 ―ここが変だ…
蛇矛(だぼう、じゃぼう)は、柄が長く、先の刃の部分が蛇のようにくねくねと曲がっているため、そう呼ばれる矛。 ―wikipedia‐「蛇矛」の項 『三国志演義』張飛の得物が「穂先の曲がりくねった長矛」であることはもう言わずもがなであろうと思います。 とこ…
『演義』における龐徳の最期は、みじめに降伏した于禁と違い、堂々と関羽と戦い、そして曹操への忠義で死んでいった・・・とずっと思っていたのですけど、どうやら違うらしいとのウワサを最近聞きました。 そこで、現在の『演義』を編纂した毛宗崗が、この件…
典韋を悪来に準えはじめるのはいつのどの書からなんだろう? てぃーえすのワードパッド‐「悪が来る」(9/25) 僕もちょっと検索してみたんですけど、典韋を悪来と評す文献は、『三国志演義』より前にはないみたいです。 てっきり、裴注あたりにあるだろうと思…
『三国志演義』で検定を作ってみました。 10コの「三国志説話」のうち、『三国志演義』にあるものはどれか、ないものはどれかっていうシンプルな問題です。 でもすごく難しくしてみたので、ぜんぶわかったらすごいと思います( `・ω・)・『三国志演義』検定…
←これ このかぶりものは「冕冠」と言うそうで、じゃらじゃらしてるやつを「旒」と言うそうです。たぶん。 冕冠、垂旒、前後邃延、玉藻。……冕皆廣七寸、長尺二寸、前圓後方、朱䖝裏、玄上、前垂四寸、後垂三寸、係白玉珠為十二旒、以其綬采色為組纓。三公諸侯…
後漢皇帝の後裔である山陽公と、蜀漢皇帝の後裔である安楽公。 どちらも曹魏、西晋において特別の地位にありましたので、その待遇について比較してみます。 他に見つけ次第追加したいと思います。 山陽公 安楽公 劉協(〜234)→劉康(〜285) →劉瑾(〜289) →劉秋…
漢の光武帝は、高祖から数えて九世の孫にあたります。 高祖―文帝―景帝―劉発―劉買―劉外―劉回―劉欽―光武帝 後に彼は自らの「九世」というキーワードと符命とを関連させることで正統性を主張しました。 そして高祖から元帝までが八世であったため、 高祖―文帝―…
こないだちょっと魏蜀正閏論の話になったときに、蜀漢が正統として弱いのは、やっぱりこれを継承する王朝がなかったからだろうという感じの話をしました。 曹魏でしたら、司馬晋がここから禅譲を受けたことによってその正統性が保障されました。晋以降も劉宋…
本日の矛先は趙戒です。 趙戒は范曄『後漢書』には列伝を持たず、息子趙典の伝にて多少触れられる形です。 趙典 字は仲経、蜀郡成都の人なり。父の戒、太尉と為る。桓帝立つ。定策するを以て廚亭侯に封ぜらる。……建和初、四府 表し薦め、徵され議郎を拝す。(…
(袁)盱 のち光祿勳に至る。時に大將軍梁冀 朝をほしいままにし、内外 阿附せざる莫し。唯だ(袁)盱と廷尉邯鄲義 身を正し自ら守す。桓帝 冀を誅するに及び、(袁)盱をして持節して其の印綬を収めしむ。(『後漢書』袁安伝) 袁盱とは、袁安の孫にあたる人です。 …
順帝之末、京都童謠曰「直如弦、死道邊。曲如鉤、反封侯」。案順帝即世、孝質短祚、大將軍梁冀貪樹疏幼、以為己功、專國號令、以贍其私。太尉李固以為清河王雅性聰明、敦詩絓禮、加又屬親、立長則順、置善則固。而冀建白太后、策免固、徵蠡吾侯、遂即至尊。…
「四世三公」と言いますけれど、それはつまりどれくらいすごいのか。 たとえば弘農楊氏は「四世太尉」ですし、蜀郡趙氏も四代続けて宰相格を出してますし。割といるんですね。 だから袁家にしても、そこまでめちゃすごいって訳ではないのかなって。 というこ…
最近ではその様な論文を読みます。 だいぶんイメージが変わりました。
前回までの記事では范曄『後漢書』の中での趙典の不思議な扱われ方について書きましたが、趙典の問題はそれに加えてもうひとつ、趙典の最期について多くの異説が残されていることにあります。 趙典の最期に関する記事は以下の四書に見られますが、いずれも異…
昨日の記事で、范曄『後漢書』においては、 ・党錮伝に記録される事績不明の「八俊の趙典」 ・太常などを歴し列伝まで持つ「蜀郡の趙典」 これらが何故だかイコールで結びつけられていないことを書きました。 それでは、范曄以前の諸家「後漢書」では趙典は…
後漢末の八俊のひとり趙典は、『後漢書』においては党錮伝に「唯趙典名見而已」とあるだけで、ここ以外には事績などが見当たらないとされている、と昨日の記事では書きました。 ところが検索してみれば瞭然、実は范曄『後漢書』の様々なところに趙典の事績は…
いわゆる三君八俊という、後漢末に宦官たち濁流勢力と争った清流派「党人」の番付は、実は史料によっていろいろ違っています。 それが范曄『後漢書』ではどうなっているかというと、范曄は彼らのために「党錮伝」を立て、三君以下の顔ぶれを以下のように定め…
4月に更新された三国志ブログさんで興味深かった記事を集めました。ヽ(・ω・)/
【25年】 ____ / \ かわいそうな更始陛下… / _ノ ヽ、_ \ 赤眉のせいで… / /⌒) ⌒゚o \ もし洛陽まで来れたら淮陽王にするお | / /(__人__) | 本当に来れるものならな… \/ / ` ⌒´ / / ̄ ̄\ / \ ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ |:::::: | イ二二∞∞∞∞…
『続三国志』における劉淵こと劉璩は、こちらの家系図の通り劉禅の子となっています。 ところが『続三国志』の原書である酉陽野史『三国志後伝』を見ますと、「劉理の子」とされているのです。劉理とは、劉備の三男にして安平王に封じられた皇族です。 しか…
【原文】 晉陳壽撰。宋裴松之注。壽事蹟具晉書本傳。松之事蹟。具宋書本傳。 凡魏志三十卷。蜀志十五卷。吳志二十卷。 其書以魏爲正統。至習鑿齒作漢晉春秋。始立異議。自朱子以來。無不是鑿齒而非壽。然以理而論。壽之謬萬萬無辭。以勢而論。則鑿齒帝漢順而…
明代、酉陽野史によって成立した『三国志後伝』は、『三国志演義』の後を継いで、西晋末から東晋初までの動乱期を描いた章回小説です。 そして江戸時代、これを翻訳した通俗小説『通俗続三国志』と『通俗続後三国志』がありました。 こちらではその『三国志…
29X年、時はまさに世紀末! しかし漢王朝はまだ死滅してはいなかった! \テーレッテー/