ハングルの「三国誌」の話
三国志を好きになりはじめたばかりのある日のこと。
ふと図書館で「三国史記」なる本を見つけ、すわ三国志だと思って手に取ってみたら、三国は三国でもそれは朝鮮の三国史(新羅・高句麗・百済)だった――
という哀しき過去を我々は誰しもが抱えているわけですが、ついこの前、そんな昔の傷を思い出させる体験をしました。
それはうちの図書館の地下書庫でのこと、ハングル書架に並んでいたその本は『大三國誌』という題名で、「三国誌」と「後三国誌」それぞれ五巻から構成される全十巻の本でした。
著者は――あとで検索して分かったことですが――金龍済(三国誌担当)と趙誠出(後三国誌担当)という人で、1979年にソウルの平凡社(あの平凡社?)から刊行されたものだそうです。
その本を初めて見たとき、もちろん僕は「おっ」てなりました。「三国」という文字を見たら反応するよう、我々は躾けられておりますので、これは自然な反応ですね。しかもそれは「三国誌」と「後三国誌」のセットと来た。こんなパッケージ聞いたことがない。「後三国」とは――?
けれども同時に、これで僕はなかなか手練れですので、すぐさま例の朝鮮三国史のことを油断なく思い出しました。うん、なにせここはハングル書架なのだから。当然、この場で「三国」と言ったら魏・蜀・呉でなくて、新羅・高句麗・百済なのだろうなと。
しかも三国志だけでなく、実は日本十進分類法にもささやかな自信がある僕は、そこに貼られたラベルが"221"であることに抜け目なく気づいていました。221は朝鮮史のカテゴリ。この本がもし本当に三国志ならば、その数字は222.04、もしくは923.5でなくてはならない。そう、この本は間違いなく朝鮮史の「三国誌」でした。
ただ、たとえ違うとわかっていても、書架を通りかかるたびに目はそちらの方に行ってしまうもの。
本当にまぎらわしいんだよなあと思いつつ、しかしその一方で「待てよ」とも思う。
「三国誌」はともかく、「後三国誌」は何なんだろう?
あ、やっぱりあるんだ(九世紀末)
ひょっとしたら、あの 「後三国志」のことかもと思ったのだけれど(落胆)
そうか、違うのか。
びっくりしました。
いくぶんかの葛藤のすえ、その『後三国誌』を実際に開いてみたら、これ本当に『三国志後伝』のハングル訳だったんです。目次を見てわかりました*1。
つまりこの『大三国誌』なるものは本当に本物のまぎれもない「三国志」で、『三国志演義』と『三国志後伝』をセットとして現代韓国語に訳し、ひとつのシリーズにしたものだったんです。ラベル間違ってるじゃねえか。
これはちょっとおもしろいです。
『三国志後伝』が『三国志演義』の"続編"であることは、『後伝』サイドが『三国志演義』人気にあやかって勝手にそう自称しただけのことです。そこで描かれる五胡十六国時代の争乱は本来的には『三国志演義』の物語と直接関係しません。だから両作品をあたかも一対のように扱うのは間違いと言えば間違いなのですが、でも、すごくわくわくする。
それに、――たとえ前半の「三国誌」こと『三国志演義』のおまけであろうとも――1970年代に『三国志後伝』を世に出したことにも惹かれます。日本でさえ、100年くらい前に『通俗続三国志』『通俗続後三国志』(江戸時代の『三国志後伝』の翻訳)を復刻したっきりなんですから。よく知っていたなあ。
と、いう小さな発見をしたのが半月前のこと。
その後も折にふれてパラパラ眺めていたのですが(本当に眺めるだけ。ハングルわかんないから)、もちろん手に取るのは『後三国誌』のほう。『三国誌』のほうは、別に韓国語訳の『三国志演義』とか珍しくもなんともないと思ったので。
それが昨日になって、ふと『三国誌』を開こうと思ったのは、さてどうしてでしたっけ?
間違えて手に取った?
ラベルを直そうとした?
ひょっとしたら、底本が何なのかと(李卓吾本?毛宗崗本?)、多少は学術的なことで気が向いたのかもしれません。でも思い出せません。大した関心があって手にしたわけではないのは確かです。
だからこそ、それは本当に出し抜けで、心底驚きました。
これ『三国志演義』じゃなかった。
李卓吾本とか毛宗崗本とかそういうのじゃなくて、『三国志演義』でさえなくて、
つまりこの本は『三国志演義』&『三国志後伝』の翻訳と称してはいるものの実態は、前半は吉川英治『三国志』、後半は江戸期の和訳本『通俗続三国志』『通俗続後三国志』で、これらをセットに韓国語訳して『大三国誌』って銘打った本だったんです。なんで?そんなキメラ的なことに?
まず、原書を見れない『三国志後伝』の事情はともかく、どうして『三国志演義』の方までわざわざ原書じゃなくて日本語から重訳してしまったのか。
百歩譲って、なにか理由があって中国語より日本語のテキストを使う方が楽だったとして*2、でも、なんでよりによって『吉川三国志』を選んじゃったのか。
この頃なら立間祥介訳だって小川環樹訳だって、ちゃんとした『三国志演義』の現代日本語訳はもうすでにあったのに、なんでよりによって『三国志演義』じゃない『吉川三国志』を選んじゃったのか。
ひょっとしたら、彼らは本気で、『吉川三国志』を『三国志演義』の忠実な翻訳だと勘違いしていたのかもしれません。
この本には、表紙、奥付、序文のどこを見ても「吉川英治(요시카와 에이지)」の名前はありませんでした(たぶん)。その意味で、この本は無許諾で翻訳した海賊版とも言えてしまうかもしれません。
でも、もし彼らが本当に『吉川三国志』を『演義』の全訳だと信じ、そして自分たちの仕事を「『吉川三国志』という既存の翻訳を参考にした『演義』の翻訳(重訳)」と信じて疑わなかったとしたら、その場合『吉川三国志』は底本・原書ではなくあくまで参考文献扱いで、必ずしもクレジットしなくても不思議ではない、のかなあ。
なにか『横光三国志』を思い出させる話ですね。
あれも『吉川三国志』を事実上の原作にしながら、おそらく公式では今に至るまでまったく吉川英治の名前を出しておらず、かと言ってそのことで何か怒られたということも聞きません。
あと柴田錬三郎の『三国志』。これも表向き『三国志演義』の翻案を装ってますけど、中身は完全に『吉川三国志』のダイジェストです。吉川英治の名前はもちろんクレジットしていない。柴錬はこの後、これをもっとちゃんと『演義』に寄せて、そしてオリジナリティを盛り込んだ『英雄ここにあり』を発表しますが、でもところどころに『吉川三国志』だった頃の名残が見られます。柴錬はこれで吉川英治文学賞を受賞しました。
どうも、『吉川三国志』は"こういう"使い方をされてもなんかセーフだったんじゃないか、という印象は前々からありました。もうちょっと言うと、あまり、いっこのオリジナル作品とは見なされていなかったのではないか、と。
立間先生が日本ではじめて『演義』の現代語訳を出版した時、「お前の翻訳は吉川英治のと違って全然面白くない。吉川のようにもっと原典に忠実にやれ」と読者に叱られたエピソードは有名です。
なにより吉川自身が、自作を「全訳」「全意訳」と呼ぶ向きがありました。
連載初期、まだオリジナリティにあふれていた頃には自作を「わたくし流」と称していた吉川は、やがて中盤以降ほとんど創作を盛り込めなくなり、ただ『演義』(『通俗三国志』)を書き写すばかりになってしまうと、それを自覚してか「全訳」などとトーンダウンしていったのです。
今ではもちろん『吉川三国志』≠『演義』であることは常識ですけど、かつての読者たちにとってはおそらくそれはそうではなかった。
僕の知る限り、それが普通に言われるようになったのは――『吉川三国志』の読者がちゃんとそれを説明されるようになったのは、吉川英治が死んだずっとずっと後、たぶん1979年が初めてだと思います*3。柴田錬三郎や横山光輝の『三国志』よりも後、くだんの『大三國誌』が刊行されたちょうどその年のことです。
もっとも柴田錬三郎にしろ横山光輝にしろ『大三國誌』にしろ、彼らは一般読者ではなく出版する側のプロなので、そんな単純な混同をするかなという疑問もあります。『演義』と『吉川三国志』、両方を見比べたら違いは一目瞭然なんだから。慶応で中国文学やった柴田錬三郎がまさか『三国志演義』を見たことないってこともないはずです。
だからひょっとしたら、そもそも「翻訳」に対する感覚が今と違ったのかもしれません。
吉川自身が「翻訳」「意訳」と言っていたように、『演義』と『吉川三国志』の相違程度だったら、ゆるやかな意味での「翻訳」の範疇だったのかも。いっこの一時創作でなく、古典小説の「翻訳」だから、ダイジェストとか漫画化とか重訳とかくらいだったらタダ乗りしても(当時の出版常識では)あまり問題視されなかった、のかも。
想像ですけどね。
翻訳、翻訳ってなんなんでしょうか。
*1:正確には、『三国志後伝』の和訳である『通俗続三国志』と『通俗続後三国志』からの重訳でした。『通俗続三国志』は『三国志後伝』の翻訳でありながらちょっと構成が違うので、目次を見ればどっちに拠ったか見当がつきます。それに本書の序文にも、『通俗続三国志』に拠った旨が書かれてました。『大三国誌』が出版された70年代では、『三国志後伝』の原文を見ることはほとんど不可能でした。
*2:『三國誌』の訳者の金龍済という人は詳細不明ですが、あるいは戦前日本のプロレタリア文学で名を馳せたという作家金龍済と同一人物かもしれません。
*3:これは『決定版 吉川英治全集』が刊行されたときのことです。このとき初めて、『吉川三国志』にちゃんとした解題がつけられました。担当は、上述の立間祥介先生でした。