三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

2011-04-01から1ヶ月間の記事一覧

英王のご家族

中宗大和聖昭孝皇帝諱顕,高宗第七子,母曰則天順聖皇后,……儀鳳二年,徙封英王,改名哲,授雍州牧。永隆元年,章懷太子廢,其年立為皇太子。(『舊唐書』中宗紀) 李顕は唐王朝の四代目皇帝で、母と妻はかの有名な武韋両皇后です。 また同母兄は『後漢書』の…

魏の魯相

彭城穆王權字子輿,宣帝弟魏魯相東武城侯馗之子也*1 なあ〜〜〜 大事な事、とっても……なんだよ… 魏の魯相って……『魯王がいなくても国相なの』……? 素朴な…疑問なんだよ メチャ最高に……答えてくれよ… もし…『魯相』が"魏にいたとしたら"『魯王』もよ〜〜〜 "…

陳寿と丁固

この流れ・・・契約するしか! 「てぃーえすのワードパッド」‐究明(4/21) 「雲子春秋」‐陳陳丁(4/22) これは意外な事実でした。 そして雲子さんの記事を読んで思い出したのですが、この丁固、韋昭『呉書』には立伝されていたらしいですよ。満田先生のご著書…

皇族筆頭その3 【曹楷】

曹楷は曹彰の子で、223年に父が亡くなって任城王の位にありましたが、何より孫盛『魏氏春秋』において皇帝曹芳の父親と指摘されている人物であります。 もし『魏氏春秋』の通りなら、なぜ曹叡はいきなり初代皇帝の系統ではない曹芳を後継ぎにしてしまった…

後漢の皇(帝)号追贈

『後漢書』本紀を流し見ただけなので、もっといっぱいあれば教えてください! 【安帝】 清河王慶(父)・・・孝徳皇*1 【桓帝】 蠡吾侯翼(父)・・・孝崇皇 河間王開(祖父)・・孝穆皇*2 【霊帝】 解瀆亭侯萇(父)・・・孝仁皇 解瀆亭侯淑(祖父)・・孝元皇*3 なぜ…

雍丘王曹植と陳留王曹峻

陳留郡 陳留有鳴鴈亭。浚儀本大梁。尉氏。雍丘本杞國。襄邑有滑亭。有承匡城。……(『後漢書』郡国志陳留郡) 曹植は223年〜226年の間に雍丘王であり、曹峻は224年まで陳留王でした。 王国の中に王国が…という訳ではないのでしょうが、こういうことが…

降格されなかった諸王 【曹植と曹叡】

・曹魏諸王公一覧表 黄初五年、それまで郡に封じられていた諸侯王を県王に降格させるとの詔が出されました。なので当時の諸王の列伝には例外なく黄初五年(ないし六年)に降格された旨が記載されています。 この二人を除いては。 普通だったら特別に降格されな…

曹魏諸王に関する、ちくま訳の大きな誤訳

以前、コメントで教えていただいたのですが改めて記事に。 【曹宇伝】 ・原文 五年,改封單父縣。太和六年,改封燕王。 ・ちくま訳 五年(二二四)、改めて単父県王とされ、六年(二二五)、燕王に改封された。 【曹峻伝】 ・原文 五年,改封襄邑縣。太和六年,…

燕国相夏侯恵

威弟惠,樂安太守。 文章敍錄曰:惠字稚權,幼以才學見稱,善屬奏議。歷散騎黄門侍郎,與鍾毓數有辯駮,事多見從。遷燕相、樂安太守。年三十七卒。*1 夏侯恵がいつ燕国相に遷ったか定かではありませんが、劉劭伝を見ると青龍年間では散騎侍郎にあったようで…

阿翁と呼ばれて

曹幹は一名良という。良は本来陳妾の子であったが、良が生まれると陳氏は死んだ。太祖は王夫人に彼を養育させた。良が五歳のときに、太祖は病気が重くなったので、太子に遺令を与えた、「この子は三歳のとき母をなくし、五歳で父を失うことになる。だからお…

関平の字

だいぶん前の記事ですが・・・ 「てぃーえすのワードパッド」‐定国(2009/01/7) なお、関平の字は史実、演義において記されていないが、民間伝説において字が存在している。一つが坦之(たんし、か)と読むものである。……もう一つが定国(ていこく、か)と読…

輸入された誤字 【夏侯鹹】

三国志を知りたての頃は、wikipediaのこのページを見て楽しんでいたものですが、その頃から地味に気になっていたコレをふとさっき思い出しました。 wikipedia「三国志演義の人物の一覧」 この部分です。 夏侯鹹・・・?何者なんだ・・・? さっと検索してみ…

『演義』版本で見る黒歴史 【夏侯傑】

『三国演義』の各版本によって、長坂橋で張飛に大喝されて落馬する人物が「夏侯傑」と「夏侯覇」とで異なっているらしいけどそこんところどうなのか。 というネタを先日いただきまして、大学に行ったときに見て参りました。追記で示しているように十種ほどの…

曹叡、字は元仲 【曹協】

これまでぼくは、曹叡とは正妻の子ながら、母が死を賜ったために不遇を受け、しかし最終的には後継ぎに収まる、といったイメージを思い込んでいました。 しかし今朝の記事で甄氏はあくまで妾のひとりに過ぎず、曹叡は嫡子ではなく庶長子である可能性を書きま…

封建されなかった曹叡の弟 【曹蕤】

・「てぃーえすのワードパッド」‐平原王と平原侯(2011/4/4) ・「てぃーえすのワードパッド」‐曹叡って(2008/12/15) ※参考 曹魏諸王公一覧 曹叡は黄初二年に斉公、黄初三年に平原王に封じられていますが、たとえば漢の明帝や魏の文帝など、普通では太子が封建…

荊州刺史丁原

その時、ひとりが宴卓を押しのけてつかつかと進みいで、大声に叫んだ。……董卓が見れば、荊州の刺史丁原である。(立間祥介訳『三国志演義』第三回) 『魏書・呂布伝』によれば、丁原は実際には荊州刺史ではなく、并州刺史・執金吾を歴任している(沈伯俊『三国…

炎興二年

元号オブジイヤー、炎興。 謹んで案ずるに、『通鑑綱目』、炎興元年冬十月、帝出で降り、漢亡び、次年は魏の咸熙元年に書す。炎興に二年無し。此の二年を称すは、『綱目』と合わず。劉封・廖化諸伝を考えるに、仍ち咸熙元年に作る。此の炎興二年を書すは、郝…

その後の蜀帝

(景元四年)この月、蜀主劉禅訒艾を詣で降り、巴蜀皆平ぐ。…(翌咸熙元年)丁亥、劉禪を封じて安樂公と為す。(『三国志』元帝紀) 263年、後主劉禅が降伏。ここに蜀漢は滅び、翌年劉禅は安楽公に封じられます。公爵とは、魏において曹氏宗室と一部の例外のみ…