三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

貞節と義理 【夏侯令女】

 うちのブログ、「三国志 女性」という検索ワードからいらっしゃる方が他のダントツで多いんです。以前に仙石先生の著書の感想を書いたためだと思いますが、世間ではやはりそういう需要が多いというか・・・そうですよね、ぼくも孫大虎大好きだし・・・董白は昔からデッキに入れたいと思うし・・・。
 なので三国時代を代表する女性、夏侯令女についての小ネタです。彼女は『続後漢書』にも立伝されてますしね。
 夏侯令女に関するエピソードは『三国志』附曹爽伝の裴注が引く皇甫謐『列女伝』に見られます。あらすじはwikipediaの夏侯令女が十分に詳しいのでそちらを見ていただくとして・・・。
 このような女性が亡父のために命懸けで貞節を貫くという類の逸話は、夏侯令女がしばしば荀爽の娘荀采とセットに指摘されるように、実にたくさんあるようです。
 例えば『太平御覧』人事部貞女などを見ますと、かの有名な劉尚『列女伝』や他でもないこの皇甫謐『列女伝』から多数の引用があります。貞節を示す"割耳"・"割鼻"といった方法もある種テンプレになっていたようです*1。中には令女のようにその両方を行った女性も少なくありません。あくまで夏侯令女の貞節に関しては、皇甫謐『列女伝』に収録された多くの同類エピソードの中のひとつにすぎないのです。


 しかし夏侯令女はそのエピソードの中に、正始十年の司馬氏クーデターという重大な歴史的事件を含んでいるという点で独特であると思います。と言いますのも、ぼくが夏侯令女でふと気になったのは、彼女の父夏侯文寧が梁相になっていたことに触れられている点であります。


曹爽が処刑され、曹氏一族がことごとく殺されると、令女の叔父は上書して、曹氏との婚姻関係を断ちきり、無理やりに令女を家にひきとった。当時文寧は梁の相であったが、……それとなく彼女に再婚をすすめさせた。



 この時の梁王は曹悌という人ですが、『魏氏春秋』に従うならば彼は皇帝曹芳の実兄にあたる大人物で、そうでなくても曹丕系統の数少ない諸侯王である、有力皇族のひとりです。
 魏では形骸化していた諸侯王と国相の関係ですが、しかし建前上は依然君臣の関係にあります。曹爽誅殺後のこの微妙な時期に、準皇族の夏侯氏が有力諸侯王の下に送られたことは、かつて燕王曹宇の元に夏侯恵が送られながら沙汰止みになった件を思い出しても、なかなかに危うい人事です。にも関わらずそれが行われたということは、夏侯文寧が司馬氏側にかなり近しい人物であったことを想像させます。
 思えば、曹文叔のおじにあたる曹真は妹を夏侯尚に嫁がせていますが、それと同時に夏侯尚は娘が司馬師に嫁いでおります。また夏侯威などは晋元帝母を娘とする、司馬氏と親密な人物であります*2曹真系曹氏⇔夏侯氏⇔司馬氏という婚姻も交えたこの関係は、そのまま夏侯文寧にも当てはまるのではないでしょうか?
 夏侯文寧を含め夏侯氏の一部が曹爽ら有力曹氏から司馬氏へと乗り換えを図っていたのがこの時期であり、この夏侯令女のエピソードはその状況に基づくものだったのではとぼくは思います。
 令女はただ女性としての貞淑を守っただけでなく、台頭する司馬氏におもねる一族の中でなお毅然とかつての盟友・曹氏との義を守ったからこそ高く評価され、司馬懿としてもそれを無視できずに自分の度量を示す必要に迫られたのでしょう。
「仁者は、盛衰によって節義を改めず、義人は、存亡によって心を変えないものだ、と聞いております。曹氏が以前隆盛であったころでさえ、最後まで節操をつらぬきたいと願っていたのです。ましてや今滅亡してしまったのです。どうして平気で見棄てられましょう。けだもの同然の行為を、どうして私がなしえましょうか」
 この台詞も単に夏侯令女自身の身の振りの問題ではなく、盛衰存亡によって心変わりをしようとしている父や一族への痛烈な批判のように思えます。

*1:例えば呉の孫奇の妻の范姫は夫に先立たれてしまい、それにより実家では彼女が若く子もいないことから家に呼び戻そうとします。范姫はあくまで承知しませんでしたが、父親に強いられると、とうとう自らの鼻を切ってしまいました。范姫の父である范慎は孫登の賓客であったこともある、孫呉を通じて活躍した人ですので、范姫と夏侯令女は同時代の女性だということになります

*2:wikipediaなどネット上では夏侯威が曹真の妹を娶ったとしているところが多いですが、これは何が典拠でしょうか?