三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

関羽の娘で村おこし 【関銀屏】

関羽の三番目の娘。父親ゆずりの武勇を持ち、女性であるにもかかわらず、諸葛孔明の南蛮討伐に参加したと言われている豪傑。孫権の息子との縁談話が持ち上がったが、父関羽が「犬の子に虎の子はやれぬ!」と断り、蜀と呉の関係が悪化した。
「父上譲りのこの剛勇は伊達じゃないよ!」*1

 三国志大戦の影響で一躍有名になった民間伝承出身の架空の人物、関銀屏
 『三国志外伝』(湖北省群衆芸術美術館編/立間祥介・岡崎由美訳)に採録された民間説話を要約します。
 ぼくの感想などは文末の脚注に。




 関羽に三番目の娘が生まれたが*2、色白のたいそう美しい娘だった。*3張飛はこれを大変に可愛がり、その子に「銀屏」と名付け、家宝の真珠まで贈った。この真珠はもともと呂布の冠を飾っていたもので、張飛はこれを戦利品として以来長年大事にしてきた。息子にも劉禅にもあげるのは惜しいと思っていた家宝を、銀屏には大喜びで贈ってしまったのだった。


 成長した銀屏は一層に美しく賢くなり、また多芸に通じていたので、さまざまな家からの縁談が絶えることはなかった。孫権もまたそのひとりで、息子の嫁にと荊州関羽に縁談を申し込んだが、関羽は「高望みがすぎるわ!」と一蹴してしまったため*4、メンツを潰されて怒った孫権荊州を陥として銀屏を奪おうとした*5
 銀屏は呉と合戦になってしまったことに胸を痛め、万が一のため孔明に助力を請おうと荊州を離れた。結果として銀屏だけが助かったため、人々は銀屏の賢さと度胸を褒めた*6


 関銀屏は父の戦死を嘆き悲しみ、劉備張飛が慰めても気が晴れない。やがて銀屏は父の仇討ちを決意し、趙雲に師事して武芸を学ぶ。教え上手の師に学び上手の弟子だったので、銀屏はたちまち腕を上げた。
 そんな折、諸葛亮は自ら軍を率いて雲南討伐に向かおうとしていた。そこで南中兪元出身の李恢を副官に取り立てた。そしてその息子である李蔚もまた優秀だったので、自ら仲人になって銀屏と娶わせた*7
 人々は箱入りの女性がそんな辺境へ行かねばならないことを心配し、また一度兪元に行けば二度と戻っては来れず、ひいては父の仇も討てなくなってしまうと銀屏を止めましたが、銀屏は
「父の仇は玄関から泥棒が入ったようなもの、南方の騒乱は裏庭が火事になったようなものです。火事を鎮めれば、泥棒を捕まえるのに役に立つのではないでしょうか」
と言って縁談を承諾した*8


 銀屏は李恢親子と共に南征で手柄を立てた。一家はその後も兪元に落ち着き、地元の人々は彼女を慕って「関三小姐」と呼んだ。
 銀屏は生涯兪元の土地を離れることはなかったが、金連山に毎朝登り遙か北方を眺めながら化粧をして、故郷を偲んだ。
 彼女が亡くなると人々は銀屏をその金連山に葬った。その時にあの張飛の真珠も一緒に埋葬したので、今も金蓮山の山頂はきらきらと光っているという*9
 以上の話は雲南省曲靖県澄江にて採録された。

三国志大戦3 蜀006 R関銀屏

三国志大戦3 蜀006 R関銀屏

*1:三国志大戦3 蜀006 R関銀屏の裏書より

*2:三国演義』では、「孫権が婚姻を申し込んだ関羽娘」は荊州にて生まれたことが明かされています

*3:陳舜臣『秘本三国志』では確か、「孫権がry関羽娘」は貂蝉との間に生まれた娘とされていたと思います。

*4:関羽孫権との縁談を断った逸話は『三国志』本文をはじめ『三国志平話』『三国演義』など広くに採用されています。
なおこの断りの台詞は『三国志』では特にありませんでしたが、『平話』で「龍虎の娘を百姓の孫にやれるか(吾乃龍虎之子、豈嫁種瓜之孫)」となり、『演義』にてかの有名な「虎の娘を狗の子にやれるか(吾虎女安肯犬子乎!)」となりました。ここではそのどちらにもよらないようです

*5:もちろんそのようなことは『三国志』『演義』では見られませんが、『演義』では関羽の縁談拒否が最終的な呉蜀の決裂となり、孫権荊州攻めを決意させました

*6:演義』においては関羽三子のうち、関平関索荊州で兵難に遭い関平は戦死、関興はたまたま成都へ戦況報告に向かったいたので助かっています。銀屏の行動は関興のケースに近いでしょうか

*7:李恢は『蜀志』に立伝されており、それによれば、
建寧郡兪元県の人
馬超調略の使者になり、見事配下に加えることに成功
・なにがむむむだ!
孔明の南征に協力して功を挙げ、その後も建寧太守として地元を鎮撫した
とあります。ぼくとしては正直、李恢親子のようなパッとしない人が銀屏のキーパーソンとして登場したことは意外に思いました。なにせ銀屏は孫権の息子ですら釣り合わないほどの虎の子です。現実の劉備関羽張飛はそれぞれの子供や孫の間で婚姻関係を結んでいますし、あくまで"関銀屏"を主役として物語を作ろうとしたら彼らの息子と結ばれるのが自然と言えるでしょう。
つまりそもそも関銀屏説話は、李恢ありきで作られたものではないかと思います。おそらく兪元の人々が、地元の名士である李恢を贔屓して英雄関羽と結び付けようとした結果、関銀屏は生まれたのでしょう。『三国志』において兪元出身の人物は李恢一族しかおりません。
なお息子の李蔚は『三国志』では"李遺"と作っております

*8:関索といい、関羽の子供は南征に縁がありますね。南方での関羽人気はそれほどに高いのでしょうか?

*9:銀屏のお墓は澄江(兪元)にちゃんと残っているそうです。周倉しかり、空想創作を起源とする旧跡があるところも三国志のスゴ味であります。
詳しくはこちらのサイトさんをご参照
http://sanguo.china-world.info/ruins25007.htm
「清宣統二年(西暦1910年)の墓碑には「漢忠臣興亭侯子李蔚、寿亭侯女関氏三姐之墓」刻まれている」とのことですが、清末になっても寿亭侯ギャグっすか笑
さてはオメー毛本読んでねーな!