諸史料における趙典の最期
前回までの記事では范曄『後漢書』の中での趙典の不思議な扱われ方について書きましたが、趙典の問題はそれに加えてもうひとつ、趙典の最期について多くの異説が残されていることにあります。
趙典の最期に関する記事は以下の四書に見られますが、いずれも異なっているのです。
○常璩『華陽国志』卷十一
方授國師、未拜、病卒。
○范曄『後漢書』趙典伝
公卿復表典篤學博聞、宜備國師。會病卒、使者弔祠。竇太后復遣使兼贈印綬、竇太后復遣使策贈印綬。謚曰獻侯。
大きく二通り、党錮に坐して死ぬという『謝承』と『後漢紀』、全く関係なく病死する『華陽国志』と『范曄』とで分かれます。
『謝承』は、竇武や陳蕃と共に宦官誅殺を図って失敗、自殺したとします。
一方で『後漢紀』では、翌年の李膺らと共に獄に下され、死んだとあります。
どちらも党錮事件によって死んだことは共通しますが、『謝承』は建寧元年に陳蕃らと共に、『後漢紀』は建寧二年に李膺らと共に、と微妙に異なっています。
対する『范曄』は、党錮のことには全く触れず、単に病死したとします。更には諡まで贈られていることから、栄誉のままに死んだことが分かります。
そして『華陽国志』も同様に病死としていますので、一見すると『范曄』と全く同じ扱いかと思われますが、『華陽国志』の方は諡号の存在に触れていません。基本的に蜀郡趙氏を賞賛する立場にある常璩が諡号を書かないということは、常璩はそのような記録を目にすることができなかったのでしょう。
この様に、四書が四書それぞれに趙典の最期を書きます。
さていずれがより正しいのでしょうか。
やはり後世に八俊と讃えられる趙典ですから、党錮事件と無関係に死んだようには思えません。この内で最も趙典の当時に近い『謝承』も獄死としていますし。
ただ一方では、『華陽国志』の存在も無視できません。先に述べた通り『華陽国志』は蜀郡趙氏を宣揚しうる立場にありましたから*1、その書が「より八俊らしくない方のエピソード」とも言える病死説を採っていることは説得力もあります。また『范曄』は趙典に関しては記述が安定しないところがあるのも事実ですけど、何だかんだ言っても成立が最も遅いためにこれら三書を含めた諸史料を総覧することができた訳でして、あえて病死説を採ったことにも充分な根拠があったと考えられます。
さていかがでしょうか。