三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

諸史料における趙典の最期

 前回までの記事では范曄『後漢書』の中での趙典の不思議な扱われ方について書きましたが、趙典の問題はそれに加えてもうひとつ、趙典の最期について多くの異説が残されていることにあります。
 趙典の最期に関する記事は以下の四書に見られますが、いずれも異なっているのです。

○謝承『後漢書』趙戒伝

 靈帝即位、典與竇武・王暢・陳蕃等謀共誅中常侍曹節・侯覽・趙忠等、皆下獄自殺。

○袁宏『後漢紀』建寧二年

 陳・竇已誅、中官逾專威勢、既息陳・竇之黨、又懼善人謀己、乃諷有司奏、……於是故司空王暢・太常趙典・大司農劉祐・長樂少府李膺……、皆下獄誅。

○常璩『華陽国志』卷十一

 方授國師、未拜、病卒。

○范曄『後漢書』趙典伝

 公卿復表典篤學博聞、宜備國師。會病卒、使者弔祠。竇太后復遣使兼贈印綬、竇太后復遣使策贈印綬。謚曰獻侯。


 大きく二通り、党錮に坐して死ぬという『謝承』と『後漢紀』、全く関係なく病死する『華陽国志』と『范曄』とで分かれます。

 『謝承』は、竇武や陳蕃と共に宦官誅殺を図って失敗、自殺したとします。
 一方で『後漢紀』では、翌年の李膺らと共に獄に下され、死んだとあります。
 どちらも党錮事件によって死んだことは共通しますが、『謝承』は建寧元年に陳蕃らと共に、『後漢紀』は建寧二年に李膺らと共に、と微妙に異なっています。

 対する『范曄』は、党錮のことには全く触れず、単に病死したとします。更には諡まで贈られていることから、栄誉のままに死んだことが分かります。
 そして『華陽国志』も同様に病死としていますので、一見すると『范曄』と全く同じ扱いかと思われますが、『華陽国志』の方は諡号の存在に触れていません。基本的に蜀郡趙氏を賞賛する立場にある常璩が諡号を書かないということは、常璩はそのような記録を目にすることができなかったのでしょう。

 この様に、四書が四書それぞれに趙典の最期を書きます。
 さていずれがより正しいのでしょうか。
 やはり後世に八俊と讃えられる趙典ですから、党錮事件と無関係に死んだようには思えません。この内で最も趙典の当時に近い『謝承』も獄死としていますし。
 ただ一方では、『華陽国志』の存在も無視できません。先に述べた通り『華陽国志』は蜀郡趙氏を宣揚しうる立場にありましたから*1、その書が「より八俊らしくない方のエピソード」とも言える病死説を採っていることは説得力もあります。また『范曄』は趙典に関しては記述が安定しないところがあるのも事実ですけど、何だかんだ言っても成立が最も遅いためにこれら三書を含めた諸史料を総覧することができた訳でして、あえて病死説を採ったことにも充分な根拠があったと考えられます。
 さていかがでしょうか。

*1:常璩を含む江原の常氏は、後漢末に常洽なる人が同郡の大姓趙謙と婚姻関係を結んだことをルーツとしています。趙謙とは趙典の甥にあたり、二人とも朝廷で要職を歴任していた蜀郡随一の名士です。でありますから、常璩が地元を宣揚する中で自らとも縁の深い蜀郡の趙氏を重視していた可能性もありえます。実際に、范曄が『後漢書』にて罵倒する趙戒という人物について、『華陽国志』はひたすらにその徳を讃えています。