三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

後漢書のこと

『後漢書』荀悦伝の偏向

絓字仲豫、儉之子也。儉早卒。絓年十二、能說春秋。家貧無書、毎之人輭、所見篇牘、一覽多能誦記。性沈靜、美姿容、尤好著述。靈帝時閹官用權、士多退身窮處、絓乃託疾隱居、時人莫之識、雖從弟紣特稱敬焉。初辟鎮東將軍曹操府、遷黄門侍郎。獻帝頗好文學、…

魏の荀紣か漢の荀紣か

荀紣について、以前から気になっていた表現がありました。 荀邈字景倩、潁川人、魏太尉紣之第六子也。 ―唐修『晋書』巻三十九 荀邈伝 荀粔字景猷、潁川臨潁人、魏太尉紣之玄孫也。 ―唐修『晋書』巻七十五 荀粔伝 建安年間に死没したはずの荀紣が「魏の太尉」…

范曄『後漢書』と「党錮伝」

以前にひろおさんに教えていただいた話を、改めて自分用にまとめました。 尹勳、字伯元、河南鞏人也。家世衣冠。伯父睦為司徒、兄頌為太尉、宗族多居貴位者、而勳獨持清操、不以地埶尚人。州郡連辟、察孝廉、三遷邯鄲令、政有異迹。後舉高第、五遷尚書令。及…

『後漢書』は梁冀派閥がだいきらい その3

本日の矛先は趙戒です。 趙戒は范曄『後漢書』には列伝を持たず、息子趙典の伝にて多少触れられる形です。 趙典 字は仲経、蜀郡成都の人なり。父の戒、太尉と為る。桓帝立つ。定策するを以て廚亭侯に封ぜらる。……建和初、四府 表し薦め、徵され議郎を拝す。(…

『後漢書』は梁冀派閥がだいきらい その2

(袁)盱 のち光祿勳に至る。時に大將軍梁冀 朝をほしいままにし、内外 阿附せざる莫し。唯だ(袁)盱と廷尉邯鄲義 身を正し自ら守す。桓帝 冀を誅するに及び、(袁)盱をして持節して其の印綬を収めしむ。(『後漢書』袁安伝) 袁盱とは、袁安の孫にあたる人です。 …

『後漢書』は梁冀派閥がだいきらい その1

順帝之末、京都童謠曰「直如弦、死道邊。曲如鉤、反封侯」。案順帝即世、孝質短祚、大將軍梁冀貪樹疏幼、以為己功、專國號令、以贍其私。太尉李固以為清河王雅性聰明、敦詩絓禮、加又屬親、立長則順、置善則固。而冀建白太后、策免固、徵蠡吾侯、遂即至尊。…

諸史料における趙典の最期

前回までの記事では范曄『後漢書』の中での趙典の不思議な扱われ方について書きましたが、趙典の問題はそれに加えてもうひとつ、趙典の最期について多くの異説が残されていることにあります。 趙典の最期に関する記事は以下の四書に見られますが、いずれも異…

その他の後漢史料における「趙典」

昨日の記事で、范曄『後漢書』においては、 ・党錮伝に記録される事績不明の「八俊の趙典」 ・太常などを歴し列伝まで持つ「蜀郡の趙典」 これらが何故だかイコールで結びつけられていないことを書きました。 それでは、范曄以前の諸家「後漢書」では趙典は…

范曄『後漢書』における「趙典」

後漢末の八俊のひとり趙典は、『後漢書』においては党錮伝に「唯趙典名見而已」とあるだけで、ここ以外には事績などが見当たらないとされている、と昨日の記事では書きました。 ところが検索してみれば瞭然、実は范曄『後漢書』の様々なところに趙典の事績は…

范曄『後漢書』における、三君八俊八顧八及八廚の一覧

いわゆる三君八俊という、後漢末に宦官たち濁流勢力と争った清流派「党人」の番付は、実は史料によっていろいろ違っています。 それが范曄『後漢書』ではどうなっているかというと、范曄は彼らのために「党錮伝」を立て、三君以下の顔ぶれを以下のように定め…