その他の後漢史料における「趙典」
昨日の記事で、范曄『後漢書』においては、
・党錮伝に記録される事績不明の「八俊の趙典」
・太常などを歴し列伝まで持つ「蜀郡の趙典」
これらが何故だかイコールで結びつけられていないことを書きました。
それでは、范曄以前の諸家「後漢書」では趙典はどのように記録されていたのでしょうか?
○謝承『後漢書』
趙戒伝に、
「戒字志伯、蜀郡成都人也。……典,太尉戒之叔子也。……靈帝即位,典與竇武、王暢、陳蕃等謀共誅中常侍曹節、侯覽、趙忠等,皆下獄,自殺」
とあります。
太字の通りこれは「蜀郡の趙典」を指す列伝です。
後半部では、趙典が竇武らと中常侍の誅殺計画に失敗して投獄されたとあり、いかにも八俊らしいエピソードと言えますが、しかし言い切ることはできません。
○袁山松『後漢書』
李膺伝にこうあります。
「牓天下士,上稱「三君」,次「八俊」,次「八顧」……因為七言謠曰,「……天下模楷李元禮,天下好交荀伯條……,天下才英趙仲經。」」
ここでは八俊のひとりに趙仲経という人が挙がっていますが、仲経とは「蜀郡の趙典」の字になります。
よってここでは「八俊の趙典」と「蜀郡の趙典」が同一に書かれていることになるかと思います。