三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

その他の後漢史料における「趙典」

 昨日の記事で、范曄『後漢書』においては、
 ・党錮伝に記録される事績不明の八俊の趙典
 ・太常などを歴し列伝まで持つ蜀郡の趙典
 これらが何故だかイコールで結びつけられていないことを書きました。
 それでは、范曄以前の諸家「後漢書」では趙典はどのように記録されていたのでしょうか?

○謝承『後漢書

 趙戒伝に、
 「戒字志伯、蜀郡成都也。……典,太尉戒之叔子也。……靈帝即位,典與竇武、王暢、陳蕃等謀共誅中常侍曹節、侯覽、趙忠等,皆下獄,自殺」
とあります。
 太字の通りこれは蜀郡の趙典を指す列伝です。
 後半部では、趙典が竇武らと中常侍の誅殺計画に失敗して投獄されたとあり、いかにも八俊らしいエピソードと言えますが、しかし言い切ることはできません。

○袁山松『後漢書

 李膺伝にこうあります。
 「牓天下士,上稱「三君」,次「八俊」,次「八顧」……因為七言謠曰,「……天下模楷李元禮,天下好交荀伯條……,天下才英趙仲經。」」
 ここでは八俊のひとりに趙仲経という人が挙がっていますが、仲経とは蜀郡の趙典の字になります。
 よってここでは八俊の趙典蜀郡の趙典が同一に書かれていることになるかと思います。

○袁宏『後漢紀』

 霊帝建寧二年のことです。
 「於是故司空王暢、太常趙典、大司農劉祐、長樂少府李膺、太僕杜密、尚書荀緄、朱宇、魏 朗、侍中劉淑、劉瑜、左中郎將丁栩、潁川太守巴肅、沛相荀碰、議郎劉儒、故掾范滂,皆下獄誅,皆民望也。」
 ここに列挙される人々が八俊をはじめとした党人たちであることは見ての通りですので、これは八俊の趙典です。
 そして彼の官職の太常とは、蜀郡の趙典が当時に任じられていた官でありますから、やはりここでも両者は同一とされていることが分かります。

○常據『華陽国志』

 卷十上です。
 「趙典,字仲經,成都也。與潁川李膺等並號八俊。」
 これはもう大変にクリアです。
 蜀郡の趙典八俊の趙典なのです。


 このように、范曄に先行する史料の多くに、蜀郡の趙典八俊の趙典の同一視が見てとれました。
 そうでなくとも、八俊の趙典の出自、官職というものは明確に書かれており、范曄が「名が見えるのみ」として趙典の事績に触れないのが明らかにおかしいこともわかります。
 趙典の事績を知らない、という党錮伝はこれら先行史料を一切見なかったのでしょうか?
 いいや・・・これはウソをついている『味』だぜ・・・范曄!