『李毛異同(1)』 ‐モノローグ
『三国志演義』のエディション、「李卓吾本」と「毛宗崗本」の比較をします。
「―そもそも天下の大勢は、分かれること久しければ必ず合し、合すること久しければ必ず分かれるもの……。」
その王朝観で有名な、『三国志演義』の導入部分です。
天下が統一されることが続けばいずれは分裂し、分裂されることが続けばまた統一される・・・。三国時代の分裂も必然だった、という文学的で有名なモノローグです。
ところが「李卓吾本」にはこの導入部はなく、こちらでは「後漢の桓帝崩じ、霊帝即位するも時に十二歳、朝廷に竇武、陳蕃、胡広云々…」と党錮の禁を語るところから始まります。よってこれは毛宗崗が独自に付与されたものだったんですね。
ただこの歴史観自体は「李卓吾本」以前からありました。
中盤の見せ場「三顧の礼」にて、崔州平が劉備に対して同じ歴史観を説く場面があります。「治乱は常なきもの、この度の乱世も運命であり必然」だと。恐らく毛宗崗はこの崔州平の台詞を元にしてモノローグを書いたんだと思います。
しかしそうなると、気の毒なのは劉備です。この時の劉備は崔州平に対して「ただ自分の身は漢にあります、どうしてこれを救わないでいられましょうか」と反論をしていました。でも毛宗崗によって滅亡の運命が既定されてしまった以上、劉備がどう頑張ろうがその運命を乗り越えて漢室を救うことはできないのです。
『三国志演義』の美学、劉備の魅力はここにあるのかなと思います。
ちなみにこの導入部に関して『通俗三国志』がひょんな形で関わります。
『通俗三国志』はご存じ「李卓吾本」を訳出したものでありますが、何故か『通俗三国志』にも、「李卓吾本」にはなかったモノローグが挿入されているのです。しかもその内容が「治極まれば則ち乱に入り、乱極まれば則ち治に入る」というやはり"治乱の理"だったもんで、もしや『通俗三国志』は「毛宗崗本」を見ていたのではないか―という説まで持ち上がりました。
しかし両者の刊行年が非常に近い為、さすがに参照は不可能であろうと否定されています。それに『通俗三国志』のモノローグの内容をよく見ますと、細部は「毛宗崗本」冒頭部というより、崔州平が語った方のそれに近いです。
おそらくは湖南文山が日本人読者に対してまずは外国の歴史観から説明せねばと考えて、それが端的に表れていた崔州平の台詞を引っ張ってきたのでしょう。それが偶然にも毛宗崗とカブッた。流石は湖南文山、ですね!