范曄『後漢書』における「趙典」
後漢末の八俊のひとり趙典は、『後漢書』においては党錮伝に「唯趙典名見而已」とあるだけで、ここ以外には事績などが見当たらないとされている、と昨日の記事では書きました。
ところが検索してみれば瞭然、実は范曄『後漢書』の様々なところに趙典の事績は書かれています。
たとえば荀淑伝には、延熹九年に荀爽が太常趙典に推挙されて郎中を拝したことが書かれています。*1
また郭太伝にも、同じく太常趙典が郭泰を推挙したとあります。*2
そして皇甫規伝、永康元年に皇甫規が奏して言うには、当時一次党錮に遭った人士として、陳蕃や李膺らと共に趙典の名前も挙げられています。*3
そしてそして何より、『後漢書』卷二十七に趙典の列伝が収められているのです。それによれば趙典は蜀郡の人であり字を仲経、桓帝から霊帝期に活躍し、太常を含む九卿クラスを歴任した高官とされています。
さてこれはどうしたことでしょうか。
趙典は正体不明どころか、字も出身地も官職も列伝も明らかにされている、当代きっての人物です。
しかし党錮伝はあくまで「趙典は名前が見えるのみである」として、その事績が不明であると主張します。
こうなると、党錮伝の言う事績不明の「八俊の趙典」と、この太常に昇り荀爽らを推挙し列伝まで持つ「蜀郡の趙典」とは、実は同姓同名の別人と考えるよりないのではないでしょうか?
ここまで事績がはっきりと明らかになっている人を、党錮伝が記録しないのはおかしいですから・・・。