『後漢書』は梁冀派閥がだいきらい その2
(袁)盱 のち光祿勳に至る。時に大將軍梁冀 朝をほしいままにし、内外 阿附せざる莫し。唯だ(袁)盱と廷尉邯鄲義 身を正し自ら守す。桓帝 冀を誅するに及び、(袁)盱をして持節して其の印綬を収めしむ。(『後漢書』袁安伝)
袁盱とは、袁安の孫にあたる人です。
当時、外戚の梁冀が朝廷を欲しいままにしており、百官で彼におもねり従わない人はいません。しかし袁盱は梁冀に屈しない、数少ない高官のひとりでした。
のちに桓帝が梁冀を誅殺した時にはその一端を担い、朝廷から梁冀の故吏が一掃される中でただ袁盱ら数人のみが残ったといいます。
この様に袁盱は毅然として梁冀に立ち向かった人物です。
しかし同じ列伝内にて、その数行上を見てみるとどうでしょうか?
(袁)彭の弟たる湯、……桓帝の初、司空と為る。定策を議するに豫かるを以て安國亭侯に封ぜらる。食邑五百戸。累ねて司徒、太尉に遷る。(『後漢書』袁安伝)
「桓帝を立てた功績で以て」というやつです。
袁湯は桓帝を立てた(=梁冀におもねった)ために、一族で初めて列侯に封ぜらました。
「阿附せざる莫し」と言ったそのすぐ上に、まさしく阿附した人の名前があるわけです。
いやらしい筆法を使ってくるんですね范曄は。
従兄弟の袁盱と比較されることにより、ここに范曄の密かなる袁湯批難が読み取れるだろうと、僕は思います。