三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『後漢書』は梁冀派閥がだいきらい その3

 本日の矛先は趙戒です。

 趙戒は范曄『後漢書』には列伝を持たず、息子趙典の伝にて多少触れられる形です。

趙典 字は仲経、蜀郡成都の人なり。父の戒、太尉と為る。桓帝立つ。定策するを以て廚亭侯に封ぜらる。……建和初、四府 表し薦め、徵され議郎を拝す。(『後漢書』趙典伝)

 やはり趙戒が桓帝擁立に関わったこと、梁冀に与したことにまず触れます。
 続けて、趙典が四府(大将軍府・司徒府・太尉府・司空府)に挙げられて議郎を拝した、とします。この時の四府とはもちろん梁冀・趙戒・胡廣・袁湯のこと。清河王を退けて桓帝を立てたメンバーですね。
 どちらも、趙戒と梁氏政権との親和性を示す叙述であると考えていいかなと思います。


 しかし先行する史料はまたちょっと別のことも書いています。
 謝承『後漢書趙戒伝には、趙戒が荊州刺史として、梁商の弟たる南陽太守梁讓の横暴を弾劾したとあります。范曄『後漢書』にて強調される梁氏への迎合とは一見すると真逆となる対決姿勢です。
 このほか、謝承『後漢書』には趙戒に関する好意的な記述が割合に残されているのですが、范曄はその多くを採用しませんでした。あくまで范曄『後漢書』における趙戒像は、梁冀と共に桓帝を立てた宰相、というものに徹します。
 その意図や如何といったところですが、結果として范曄は趙戒と梁冀との関係をよりストリートに印象づける叙述をしているのです。