三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

関羽の諡号"忠義侯"

先日の記事の捕捉になりますが、関羽諡号が郝氏『続後漢書』(以下『郝経』)で"忠義"だったことについて。
ツイッターで教えていただいたところによりますと、もともとの『郝経』ではおそらく『三国志』と同じ荘繆侯(あるいは荘穆侯)だったものと思われますが、『郝経』は一度散逸したのちに『四庫全書』に収録されたことで復元されたという経歴があります。なので前々節で触れた避諱の件など、本来は宋末元初の編纂でありながら、現在我々の目に触れる『郝経』は清王朝の都合を大いに受けているようで、諡号"忠義"もそんな御都合のひとつだそうです。
『清史稿』礼志関聖帝君には以下のようにありました。

乾隆三十三年,以壯繆原諡,未孚定論,更命神勇,加號靈佑。殿及大門,易䖝瓦為黃。四十一年,詔言:「關帝力扶炎漢,志節懍然,陳壽撰志,多存私見。正史存諡,猶寓譏評,曷由傳信?今方錄四庫書,改曰忠義。武英殿可刊此旨傳末,用彰大公。」

という訳で『三国志』なら当然としましても、わざわざマイノリティな郝氏『続後漢書』まで修正するとはまったくご苦労さまと言うしかありませんね。さすがは乾隆帝
ちなみに南宋の蕭氏『続後漢書』(以下『蕭常』)はどうなっているかと言いますと、そもそも書いてないんです諡号。意外。




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蕭氏『続後漢書』に関して訂正です。
『四庫全書』に収録されている『蕭常』では確かに諡号について触れられていませんでした。
しかし『宜稼堂叢書』というものに収録されていた『蕭常』では、関羽殺害の記事ののちに、

平倶遇害。追諡荘繆。子興嗣。興字安国…

とあるように、『三国志』同様に荘繆侯を贈られたことが書いてあるんです。
そして再び『四庫全書』に戻りましてこの箇所がどうなっているのかと言いますと、

平倶遇害。昭烈命其子興嗣。興字安国…

と、前後する文章は当然まったく同じなれど、"追諡荘繆"とあるはずの四字が"昭烈命其"とまったく違う内容の文章に(というより後文の関興の文章を伸ばす形で)すり替えられていたのです。これは一体どうしたことなのか。
すり替えた理由としては当然従来の荘繆侯を悪諡と考えたからでしょうが、
(1) ならば何故『郝経』のように"忠義侯"としなかったのか。そちらの方が単純明快なすり替えであり、わざわざ関興の文章を四字分引き延ばした上で諡号の記述なしという、不自然な形をとったのは何故か。
(2) さらに『郝経』における該当部分では、『四庫全書』『宜稼堂叢書』いずれも諡号"忠義"であり、『宜稼堂叢書』も修正することができなかった(『郝経』が散逸していたので?)。逆に言えば修正がなされた『蕭常』の方には修正できるなりの理由があった(こちらは『四庫全書』以前の文章が残っていたとか?)
謎です。