關帝信仰における周倉のはじまり
1909年、西夏国の遺跡カラホト(黒城)が発見された際に出土したという、金代の関羽画であります。『三国志演義』や『三国志平話』よりも古い、現存最古の関羽像と言われています。しかしながら関羽の鬚や青龍刀という、現在の関羽像に通じるアイテムが既に描かれているなど、関羽像の変遷を考える上で貴重な資料です。
と、なると気になるのは、現代の関帝像には絶対に欠かせない、関平と周倉の存在でしょう。
現在關帝の左右に侍る周倉と関平には、決まった型ができあがっています。すなわち髭面の色黒で、青龍刀を持っているのが周倉。反対に若くて鬚がなく、関羽の印綬を持っているのが関平です。およそ明から清初にはもうそのようなテンプレートが完成していたと思われますが、しかし金代の作たる本画にはそのような人物は見られません。
李福清*1や王樹村*2はともに、画像右奥の青龍刀を持つ人物が周倉、左奥の髭の少ない人物が関平だと推定していますが、この見解には疑問が残ります。両氏ともに、青龍刀を持っているからとの理由だけでこれを周倉だと考えている訳ですが、しかしそれ以外の点では明代以降の周倉像・関平像とあまりに違いすぎます。ゆえに両氏も、周倉像・関平像の初期段階だろうかとクエスチョンマークを付けていますが、単に青龍刀のみから人物を推定するのはこの画の場合では難しいと思います。
そもそも本画に周倉と関平は本当にいるのか、と前提から疑うべきであると僕は思うのです。
以前に書いた通り、元代に成立した『三国志平話』の周倉像・関平像は、現在のものに対し関羽との関わり方が大きく異なります。具体的には、関平は関羽の死に殉ずることなくそれ以降も登場し、周倉に至っては関羽と関わりが全く見られないのです。周倉、関平という人物が關帝信仰と結びつき定着するのは、実はわりかし最近のこと(元代以降か)なのかと僕が疑う理由です。
故に、『三国志平話』よりも溯る「金代関羽像」において、明確に周倉、関平だとわかる人物が存在しないということは、大変興味深いわけであります。果たして周倉はいつから、関羽と共にするようになったのかと。