三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『通俗三国志』の回題に見る三国志観

 別の用事で『通俗三国志』の目次をぼーっと見てたところ、ちょっと面白いことを知りました。
 三国与太噺 ‐『通俗三国志』目次(付李卓吾本)
 
 いわずもがな、『通俗三国志』は李卓吾本『三国志演義』を底本として翻訳したものですから、当然ながら目次の回題もほとんど李卓吾本を踏襲しています。ところどころ表現の違うところはあっても、言わんとしているところが同じなので特に気に留めなかったのですが。
 しかしよく見てみると、表現の修正部分のほとんどは人物の呼び方にあることがわかり、しかもその修正には一定の決まりがあることに気が付きました。

 圧倒的に多いのが、呼び方を「姓+諱」に修正している例です。大半を占めます。
 たとえば、あざなを「姓+諱」に改めているものですね。

 「曹孟徳謀殺董卓」⇒「曹操謀殺董卓」(『演義』第四回)
 「趙子龍盤河大戦」⇒「趙雲大戦磐河」(『演義』第七回)
 「呂奉先轅門射戟」⇒「呂布轅門射戟」(『演義』第十六回)
 「関雲長襲斬車胄」⇒「関羽襲斬車胄」(『演義』第二十一回)
 「張翼據水斷橋」⇒「張飛據水斷橋」(『演義』第四十二回)
 「周公瑾赤壁鏖兵」⇒「周瑜赤壁鏖魏兵」(『演義』第四十九回)
 「孫仲謀合淝大戦」⇒「孫權大戦合淝城」(『演義』第五十三回)
 「馬孟起渭橋大戦」⇒「馬超大戦渭水橋」(『演義』第五十八回)
 「張永年反難楊修」⇒「張松入魏難楊修」(『演義』第六十回)
 「呂子明智取荊州」⇒「呂蒙定計取荊州」(『演義』第七十五回)

 
 また、称号や通称を「姓+諱」に直しているものもあります。

 「呂温侯濮陽大戦」⇒「呂布大戦濮陽」(『演義』第十一回)
 「関張擒劉岱王忠」⇒「関羽張飛擒劉岱王忠」(『演義』第二十二回)
 「玉泉山関公顕聖」⇒「玉泉山関羽顕神」(『演義』第七十七回)
 「蜀後主輿櫬出降」⇒「蜀主劉禅輿櫬降魏」(『演義』第百十八回)

 このような「姓+諱」への修正の理由は、たぶん読者にわかりやすくするためだろうと思います。よほど「三国志」に精通しているひとじゃないと、人物のあざなまでは分かりませんもんね。この様なあざな呼びとか、温侯という呂布の呼び方などは説話や演劇ではよく出てくるものですけど、『通俗』当時の日本にはまだ浸透してなかったんだろうと思われます。

 ところが、逆にあざな呼びへと修正されている例もあるのです。
 すなわち諸葛亮劉備司馬懿です。

 「諸葛亮博望焼屯」⇒「孔明博望坡焼屯」(『演義』第三十九回)
 「諸葛亮舌戦群儒」⇒「孔明舌戦呉群儒」(『演義』第四十三回)
 「諸葛亮智激孫權」⇒「孔明智激孫權」(『演義』第四十三回)
 「諸葛亮智説周瑜」⇒「孔明智説周瑜」(『演義』第四十四回)
 「諸葛亮一氣周瑜」⇒「孔明一氣死周瑜」(『演義』第五十一回)
 「劉備進位漢中王」⇒「玄徳進位漢中王」(『演義』第七十三回)
 「諸葛亮一擒孟獲」⇒「孔明一擒孟獲」(『演義』第八十七回)
 「司馬懿智擒孟達」⇒「司馬仲達孟達」(『演義』第九十四回)
 「死諸葛走生仲達」⇒「孔明走生仲達」(『演義』第百四回)
 「武侯遺計斬魏延」⇒「孔明遺計斬魏延」(『演義』第百五回)

 そして更に回題全体を見渡すことにより、これらの修正が『通俗三国志』の回題における人物呼称の決まりごとに従って行われていることが判明します。
 つまり原則としては「姓+諱」で統一されてるが、例外的に劉備諸葛亮司馬懿曹植あと丁原はすべてあざな呼びにされている、ということです。
 この劉備らに対する特別視はなにを意味するのでしょうか。
 考えられるもののひとつは、先に述べたように馴染みの問題です。『通俗』以前の江戸初期においても玄徳、孔明という呼び方が一般的だったのかもしれません。諸葛亮劉備司馬懿なんていうのは(とくに諸葛亮を中心として)江戸期以前から親しまれてきた人物ですもんね。『太平記』などにも孔明故事が少なからずあると聞きます。
 またもうひとつ考えるなら、そのような一般の風潮以上に訳者である湖南文山自身が劉備らの宣揚を図っていたのかもしれません。とくに劉備については、「漢中王」や「蜀帝」という呼び方もされています。このような称号で呼ぶ例は劉備以外にありません。こと「蜀帝」は原典で「先主」とある呼び方を修正した『通俗』独自のものですから、文山の劉備重視のほどが窺えます。
 ちなみに曹植丁原については、なぜこれがあざな呼びのまま残されたのか見当がつきません。曹植は文学的に親しまれていたからかという推測もできなくないですが丁原は皆目わかりません

 このような諸葛亮らの特別視に対して、逆に特別視から外されたのが関羽です。
 李卓吾本の回題において、関羽は「雲長」や「関公」とされ、唯一の諱呼びがされない人物でした。もちろんこれは関帝信仰の影響でしょう。
 しかし『通俗』はこれをすべて「関羽」に改め、曹操以下ほか人物と区別をしません。文山などはある程度は関帝信仰の知識を備えていたはずですが、それでもこの普通扱い。やっぱり一般の読者層には「関公」ではわかりづらいと考えたのでしょうか。
 日中の三国志受容の最大の違いは関帝信仰の有無にあるとよく言われていますが、『通俗三国志』という第一歩の冒頭でさえ、もうそれが現れていたのです。