三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

空海『三教指帰』における始祖論争?

以下は加藤純隆『口語訳三教指帰』を参考、また引用をさせていただいております。

というわけでコイツを見てくれ。
コレを見てどう思う?


【本文書き下ろし】
儒童・迦葉は並びに是れ吾が朋なり。汝が冥昧を愍れんで、吾が師先ず遣わす。然れども、機の劣なるに依って、浅く二儀の膚を示し、未だ十世の理を談ぜず。而るに各々殊なる途を執って、争って旗鼓を挙ぐ。豈に迷えるにあらずや

【本文訳】
(或る書によれば)儒童と迦葉の二人は共に私たち仏弟子の仲間なのです。人々の冥昧な時代に之を憐れみ、仏陀はまずこの二人を(中国へ)遣わされました。しかし深い真理を受け納める機根がまだ育っていないのを見て、(儒童をして孔子と生ませて儒教を伝えさせ、迦葉をして老子となって道教を伝えさせて)まず天地・陰陽についての表面の真理を説き示させました。ここには未だ(無限の過去から永劫の未来にわたる)十世の道理については、全く言及していません。
それなのに(之を考えずにあなた達は全体の真理の中の)各自異なった道を固執して、争って旗を振り太鼓をうち鳴らして戦っています。どうしてこれで、誤っていないなどと言えるでしょうか。


ΩΩ<行こうぜ・・・屋上へ・・・久しぶりにキレちまったよ・・・・・・



仏教伝来の記事で何度か触れていましたが、三教それぞれ、特に道教と仏教とは始祖論争が絶えません。
これがその内のひとつか…あるいは東夷のバカの戯言か。さてどうでしょう?
そもそも『三教指帰』とはなんぞやと。
今日の放課後にざっと調べた限りなんですけど、その内容は儒教道教・仏教の三教の比較論を物語形式で著したもので、とある放蕩者を更生させるために儒者・仙人・仏僧がそれぞれ論を闘わせる場面を描いています。
こういう三教の比較論は大昔からけっこうあると思います。中国最古の仏教著作とも言われている牟子の『理或論』がその代表でしょう。日本だと、『日本霊異記』がそういうことやってたよーな。
しかしまぁ意外なのが、弘法大師さんがかなり露骨に儒教道教を貶めていることなんですよ。『三教指帰』のことを知ったのはある授業での発表でなんですがね、なんか空海サマの見識を疑ってしまうような、あまりに一面的な見方に終始しているように感じました。弘法ってもっと偉い人だと思ってたんですがねぇ。
以下、雋雪艶「『三教指帰』における儒教道教」(『古代中世の社会変動と宗教』(2006))を参考にしていますが、筆者も序論にて中国の自分のゼミ生が、空海儒教道教理解が浅いと感じていることを紹介しておられます。
これによれば『三教指帰』における儒教は、まったく権勢・富・名誉などの世俗的な享楽を手に入れるための存在にされています。作中の儒者は放蕩者に、権力と名誉の輝く人生の実現を説きます。これは「空海儒教批判の方法として、儒教の現世利益を重んじるところをとりわけ強調」していることによります。仏教思想による、この世が無常であるという見方を前提とすれば、その無常を自覚せずに権勢名誉に明け暮れる愚かしさが導き出されます。よって、仁による理想的人格、礼による理想的社会という儒教本来の思想には空海はほとんど触れていません。
一方道教ですが、これは唯々仙人を目指すものと描かれています。ただし、道教には無常思想も存在し、その克服のために神仙思想があるのだとすることで、無常を自覚する分儒教より一歩先を行く思想だと空海はしています。空海の批判基準は「無常思想」なのです。
とはいえ道教思想も一面的な説明にあることには変わりなく、実際の道教の、己を重んじ、生命を大事にする世俗的欲望としての神仙思想には触れられていません。
あくまで、仏教および空海の思想である「無常思想」を基準にするために、中国本来の儒教道教の一面だけを強調するのみに留まっているのです。


そういう露骨な仏教中心の論調が、あんな始祖論を用いるに至ったのだと思われます。
孔子老子は共に仏陀の弟子」
「中華の人々が仏法を理解する域に達していないので、仕方なく表面部分にすぎない儒教道教を説いた」
始祖論でもこんなかっ飛ばしたものは見たことない。いやあるかもしれんですけど、中国史を愛好している日本人として、よりにもよって日本仏教で最も偉大なひとりがここまで中国宗教を激ディスしていることには衝撃を受けました。
一体なにを典拠にそんなことを。
そもそも三教拮抗の中国でならともかく、日本において『三教指帰』を説く理由はなんだったのか。
ここからは加藤純隆氏を参考にしますが、どうやら『弁正論』という仏教著作が典拠らしい。おそらく唐の法琳という僧侶の著作のことと思われ、それによれば「『仏説空寂所問経』及び『天地経』によるに、みな言う、吾れ(=仏陀)迦葉をして老子と為さしめ、無上道と号し、儒童はかしこ(=中国)に在って、号して孔丘といわん。漸々に教化して、其(の地の人)をして孝順ならしむ、と」。
つまり空海は孫引きっすか?
以上の『弁正論』とそれを典拠とする説は、その他でも渡辺照宏氏などがほぼ同様に書かれていらっしゃいました。
そして加藤氏が続けて述べるには、『弁正論』が典拠にするこの二冊は何れも偽経であろうと。
なら弘法大師さんはニセモノに釣られたクマなのかと言えば、加藤氏は「けれども大師は偽経を余り気にかけていません。およそ根本の道は一つであり、数多くの道はあっても、結局それらはすべて真実の道に帰一する、というのは大師の思考法であって、この真実に叶った所説は、自由に大胆に之を採用されるようです」と述べてらっしゃいます。

また、同じく空海の著作『十住心論』ってやつでは、人間の思想レベルを十に分けて分析し、それにおいて儒教的境地は第二、老荘思想の境地は第三としてるんですって。
弘法大師ェ・・・。
今日の発表で一年生が「仏教ってなんかもっとみんなに優しいとか、そんな感じのイメージでした」って感想を言ってたのですが、なんかわかるなぁそれ・・・。
中国仏教伝来をちまちま勉強してたとこに、突然ウチの国で一番有名な坊さんが全部ひっくり返しってった、そういう感じです。