三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』

 このブログを見返してみると、あんまり僕は本のレビューとかをやってこなかったみたいなんだけど、でもやっぱりこの本についてはひとつ書いておかなきゃなって思う。
 正直に言って、"あの"柿沼先生が書く三国志の本ってことで期待していたものとはまったくの別方向の本だったのだけど、その別方向で大いに勉強させていただいた本だった。
 想像とは違っていたけどいい本だった、ってのが僕のだいたいの感想です。
 
 まずなにより僕がいいと思ったのは、――本の中身とは直接関係ないことで申し訳ないけど、渡邉義浩先生の本じゃないということそれだけで、まずいい本だと思った。いや渡邉先生で悪いことなんてこれっぽちもないのだけれど、でもたまには、渡邉先生以外の三国志の本だって読んでみたいと思うじゃないですか。
 改めて言うことでもないけれど、三国志というテーマは(あるいは歴史学や文学という分野そのものが)、見る角度によってまるでいろんな見方ができる。取り組む人の数だけ三国志のかたちもある、ってのはけっこう誇張表現じゃなくて、そこに三国志の魅力のひとつがあると言ってもいい。渡邉先生の本が面白さもその辺にあって、この先生は非常に強固な渡邉義浩的三国志を持っていて、それを著書の中でたくみにひそませるからこそ――時には全然隠せてないけど、あんなに楽しく読めるんだと僕は思っている。
 だからこそ、それ以外の人たちの三国志ってのもそれと同じくらい見てみたいと常々思っていた。しかし専門家が一般に向けて書いた三国志の本は、ここ十年で見てもそれほど多くはない。思い返してみても、井波律子先生が最近たくさん書いておられるみたいだけど、それを除くと、たぶん満田剛先生や石井仁先生あたりまで遡ってしまうのではないだろうか。本当にこの十年あまり、めぼしい三国志の本はほとんど渡邉先生ひとりによって手がけられてきたのだ。
 そんな中で久しぶりに現れた柿沼陽平という先生は、渡邉先生とはだいぶ異なるタイプの研究者だと思う。もちろん、ふたりとも歴史学という点では共通するのだけど、渡邉先生が儒教だったり文学だったり士大夫的な名声(ようするに「名士」)だったりと、三国時代を文化的な要素から見ようとしていることに対し、柿沼先生が得意とするのは、経済、国家制度、あるいは出土文字資料という、今の中国史学の王道と最前線をゴリゴリと進むような研究である。とくに柿沼先生の専門とする貨幣経済に関すること(たとえば劉巴の話とか)は、やっぱりさすがだと思った。
 そうした意味において、これまで渡邉先生の新書を読んだことのある人にはぜひこの本も読んで欲しいし、逆にこの本が面白いなと感じた人は、ぜひ渡邉先生の新書も手にとってみてください。三国志もいろんな見方ができるんだなということが――ごくごく当たり前のことなんだけれど、実感できると思う。

 もうひとつ、この本のいいところは、その文章ということでも、その解説の中身ということでも、とにかく読みやすいってことだと思う。正直、読んだときに「ここまでか?」って思ったくらい、これでもかとわかりやすく平易な説明に徹している。
 冒頭、「期待していたのとはまったくの別方向だった」と書いたのはまさにこの点で、僕は最初、あの柿沼先生の書く本なのだから、きっと僕のまったく知らない新しい知見が盛りだくさんなのだろうなと期待していた。その点で僕の予想はまったく裏切られた。
 でも考えてみれば、新書というのはそのジャンルに興味・知識がまだあまりない人でも比較的手に取りやすいというか、むしろそういう読者の方が多数ともなるものだから、当然、読者は三国志を知らないか、ぼんやりとは知っているくらいを想定すべきなのだろう。僕が勝手に、たとえば講談社メチエとか東方選書みたいなレーベルで書かれる密度を期待してしまっただけのことで、それは裏切られて当然だったのだ。
 で、改めてそうした「わかりやすさ」に注目すると、この本は勉強になることが多かった。ご存じの通り、簡単に書く、と簡単に言うけれどそれを実際にやるのは想像するよりもずっと難しい。専門的知識を初学者にわかるよう噛み砕く難しさ、文章として読みやすい文章を書くことの難しさ。その難しさにはいろんな種類があるけれど、そのなかで個人的経験から言うならば、僕の場合は「書かないこと」が何より難しかった。ついつい書いてみたいことやってみたいことがあふれすぎて、出来上がった本はまあマニアックな本になってしまった。本当に申し訳なかったと思う。こういう欲求をおさえつつ、ニーズを正しく読み取って、大事な情報だけを整理して文章を書くというのは、少なくとも僕のような若輩には大きな忍耐を必要とすることだった。
 まあこれはあくまで僕の場合であって、柿沼先生のような経験豊富な人なら、その辺も苦もなくこなしてしまえるのかもしれない。ただそれでも、この本のあとがきを見た感じ、やっぱり少なからず苦労もあったんじゃないかなと思う。どうなんでしょうね。

 ともあれ、この本はこれから三国志を知る人に向けたものとして、本当に読みやすい。
 そしてそうでありながら、コアなファンをただ退屈させるものでも決してなくて、初学者が読む邪魔にならない程度に、興味深いキーワードが散りばめられている。多くは語らないけど、「こういうこともあるけどね」とわかる人にはわかる一言がそえられている。あるいはさらに興味を持った人が、よりディープな知識に触れることができるよう、ほかの書籍や論文への誘導も丁寧にされている。
 さっき、一緒に読むといいと言った渡邉先生の本とこの柿沼先生の本、どっちを先に読む本として勧めるべきか、ちょっと迷うけど、もしかしたら軍配は柿沼先生のほうに挙がるかもしれない。

 こんなところが僕の感じたこの本の「いいところ」なんだけど、一応不満だったことも挙げておくと、ところどころで、「それってそうだったけ?」と首を傾げるところもあった。まあそれは細かいところなので置いておくとして、全体的なことを言うなら、「既存の劉備像・諸葛亮像をひっくりかえす」ことにやけに前のめりな姿勢が僕は気になった。
 オビに「歴史学の最新知見が教える「名君」「天才軍師」のウラの顔」って書かれていることはまあよくあるキャッチーなコピーだとしても、本文中でも何度も、「本当に劉備はよく言われる仁徳の君主なのだろうか」的なことがくりかえし強調されている。
 で、こういう仁君としての既存の劉備像ってのは、要するに『三国志演義』的な劉備像のことなので、あんまりそういう話ばかりが出てくると、『演義』マニアとしては正直に言ってあまりいい気分にはならない。一般向けの三国志本でありがちな、『演義』を間違った知識・イメージの象徴として槍玉に挙げるような言いぶりで、僕としては「お?やるのか?」って言いたくなる。
 もっとも、こういうわかりやすいテーマを軸にしてくれたほうが普通の読者には読みやすいのだろうし、そういう意味でこれも柿沼先生の「わかりやすさ」に対する心配りなのかもしれない。
 それに当の柿沼先生はというと、『演義』については「史実と虚構が絶妙に混ぜ合わされ、一つの壮大なドラマが展開され、古来、中国民衆文学の最高傑作とのよび声が高い」「すばらしい文学作品」と絶賛しているわけで、自分自身のことも「中学校のときに横山光輝の漫画『三国志』を読んで以来、三国志の世界に魅入られてきた。だいたいどこの学校のクラスにも一人か二人はいる、三国志好きであった」と振り返っている。随所に三国志そのものへの愛も感じられて、そこまで言われてしまうと、こっちとしても「ま、今日のところはカンベンしたるわ」となってしまう。
 なんか全部、柿沼先生の手のひらの上な気がするけれど。
 
 

劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』 (文春新書)

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