三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

後漢初の諸王

丙辰,詔曰:「長沙王興、真定王得、河間王邵、中山王茂,皆襲爵為王,不應經義.其以興為臨湘侯,得為真定侯,邵為樂成侯,茂為單父侯.」其宗室及絕國封侯者凡一百三十七人.丁巳,降趙王良為趙公,太原王章為齊公,魯王興為魯公.(「光武帝紀下」建武十三年)



建武十三年、合計で7つの王が降格処分となりました。
建武年間には二度、大きな封建がありましてひとつは二年に宗室の功臣や劉氏群雄を王に封じたもの、ふたつは十五年に光武帝の皇子十人を公に封じたもの。
光武帝による宗族封建の顔ぶれは以下の通りです。
 ・叔父良・・・広陽王(のち趙王)
 ・兄子章・・・太原王(のち斉王)
 ・兄子興・・・魯王
 ・族父歙・・・泗水王
 ・歙の子終・・・淄川王
 ・歙の従弟茂・・・中山王
 ・舂陵侯家祉・・・城陽*1
 ・長沙王家興・・・長沙王
 ・真定王家得・・・真定王
 ・河間王家邵・・・河間王
舂陵侯家と長沙王家とは景帝を共通の祖とする親戚にあたります。景帝の子劉発の直系が長沙王家。劉発の庶子劉買の直系が舂陵侯家。この時代における舂陵侯家の暴れっぷりはとってもとても有名ですよね。

  景帝―長沙王発―長沙王庸…………………長沙王興
  景帝―長沙王発―舂陵侯買―熊渠―仁……城陽王祉
  景帝―長沙王発―舂陵侯買―熊渠―利……更始帝
  景帝―長沙王発―舂陵侯買―劉外…………光武帝

また河間王邵も景帝から続く河間王家のことでしょう。真定王家も同じく景帝からの出。中山国は本来、あの有名な劉勝の封国ですが群雄劉茂を封じて復活させています。
このように前漢王族のうち長沙・真定・河間、そして中山の四国を復活させたのは、いずれも劉秀と同じく景帝を祖とするからだと思われます*2


これらを一斉降格にしたのが建武十三年の処分でした。
「経義に応ぜず」、李賢注に曰く光武帝に対して疎遠な宗室であるとの理由にて、長沙王、真定王、河間王、中山王を列侯に降格します。それぞれ臨湘侯、真定侯、楽成侯、単父侯。これより前に亡くなっていた劉歙、劉終、劉祉に関しても既にその子を改めて列侯に封じています。光武帝ともっとも近しい前漢王族として特別の紹嗣を認めた四王でさえ一時のものに過ぎなかった訳ですから、その他の前漢王族の待遇もまた微妙なものだったのでしょうね。参考:「てぃーえすのワードパッド」―後漢末の劉氏についての戯言
そして劉秀の三親等と近縁である、趙王斉王魯王もまた降格されます。さすがに列侯ではなく公爵に留め、かつ建武十九年には諸侯王に復帰しています。
しかしその間の建武十五年には光武帝が自分の皇子を一斉に公爵に封じ、十七年には早くも王に昇格させています。宗室三王も王に復帰したとはいえ、光武諸王に比べると封国の規模も歴然でした*3
新末諸侯から皇帝の近親者へ。この封建体制のシフトは建武十一年の公孫述平定に伴う光武帝の権力確立の表れと言えるでしょう。


ちなみに三王の公爵降格に関して、どういう訳か当の宗室列伝の記述からはそれが窺えません。劉良の趙公降格のみちゃんと書かれていますが、斉王章については記述の食い違いさえあります*4
また斉王と魯王の父(つまり劉秀の実兄)に建武十五年それぞれ追諡がされていますが、ここでも公位を贈ったとする本紀と王位を贈ったとする列伝で割れています。結局はいずれも昇格されているのですから単に列伝の方が結果だけを記したのでしょうが・・・ちょっと気になりました。

*1:これよく間違える人がいるんですけど"春"陵侯ではなく"舂"ですキリッ …すみませんコメ参照です。どうもありがとうございました

*2:鎌田重雄『秦漢政治制度の研究』1962

*3:同上参考。封邑の具体的な数字も書いてあったのですが、メモり忘れた…

*4:列伝では建武十一年斉王に遷ったとあり、建武十三年で太原王とする本紀と食い違います