三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

曹操政権の諸侯王政策

是歲、立故琅邪王容子熙為琅邪王。齊、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟北、平原八國皆除(『後漢書献帝本紀 建安十一年)


諸侯八カ国の一斉除国。
この当時まだ存在していた諸侯王国の数、十六。つまり実にその半分までもが一挙に除かれてしまったわけです。これだけですととんでもない沙汰のように思え、ついに曹操が野心を露わにして劉氏の力を削ぎにかかったんだと捉えることもできます。実際以前にネットでそういう意見を見かけたことがあります。
ところがこの八国のうち、阜陵、下邳、常山、甘陵、済北の五国はすでに王が不在の状態だったんですよ。阜陵は建安年間に劉赦が亡くなって以来、下邳は184年に劉意が亡くなって以来、常山は183年に劉翬が黄巾賊から逃亡して以来、甘陵は189年に劉忠が亡くなって以来、濟北は年代不明ですが劉忠が亡くなって以来、いずれも後継者不在のまま放置されていた国。本来ならば嗣子が絶えても直ちに国を除くことはなく、遅くても数年後には漢朝がしかるべき親族を後継に建てるはずですが、中央の混乱のためかそれすら行う余裕がなかったようです。
さらにそれ以外の三国ですが、斉も北海も平原も六十年以上*1も王の記録が『後漢書』から途絶えており、確かに亡くなったとの記録もありませんけど、ちょっと微妙なところではあります。
では何故206年になってから一斉に処分が下ったかと言えば、やっぱり河北平定と無関係ではないんでしょうね。これもネットで見かけたものですが、このうち何国かが袁紹に与していたんじゃないかという意見があり、とてもおもしろそうなんですけどどうでしょうね。王いないし。


九月庚戌、立皇子熙為濟陰王、懿為山陽王,邈為濟北王、敦為東海王。(『後漢書献帝本紀 建安十七年)
山陽公載記曰:「時許靖在巴郡、聞立諸王、曰:『將欲歙之、必姑張之;將欲奪之、必姑與之。其孟紱之謂乎!』」

続いて建安十七年、今度は逆に献帝の皇子四人を王に封じています。
乱世で激減してしまった藩屏の補填とも考えられますが、明らかに野心を持ちながら劉氏を封じようとする曹操の欺瞞を非難して許
( ゚Д゚)山頂は黙ってろ


この蒼天馬謖の元ネタになったであろう台詞で許靖が非難しています。「何かを奪おうとするときは必ず与えるのだ」と。
山頂曰く元ネタの元ネタは『老子』だそうですが、先生に検索させたらちゃんと『老子』出てきたんできっとそうなんでしょう*2
しかしまぁ、許靖はあんなこと言ってますけどね、どういう形にしろ皇子を封王するなんてそうそうできることではないですよ。遡りますと、和帝はノーカンとして最後にちゃんと封建を行ったの章帝なんですよね。最初三代だけです。どんだけ貧弱な系統ですか。
だからなんにせよ封建ができただけでもよしとしましょうよ劉協。ね。

*1:平原王は152年の記録が最後

*2:それよりこれの前に山頂が曹操老子好きとか言ってますけど、ぼく初めて聞きました。ほんとですか?