三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

みたび東海王

すみません、まとまりなくて。また東海王です。『後漢書集解補』の方を読み忘れてしまってまして。ただ結論は前記事前々記事とほぼ変わりありません。
昨日の銭大繒の解釈に対して『後漢書集解補』に引かれる侯康が反論をしており、そこでまた新たな東海王の矛盾が指摘されていたのです。
それが孔融伝の以下の記述でした。

五年,南陽王馮、東海王祗薨,[一]帝傷其早歿,欲為脩四時之祭,以訪於融.融對曰:「聖恩敦睦,感時筯思,悼二王之靈,發哀愍之詔,稽度前典,以正禮制.竊觀故事,前梁懷王、臨江愍王、齊哀王、臨淮懷王並薨無後,同產昆弟,即景、武、昭、明四帝是也,未聞前朝修立祭祀.若臨時所施,則不列傳紀.臣愚以為諸在沖齔,聖慈哀悼,禮同成人,加以號謚者,宜稱上恩,祭祀禮畢,而後絕之.至於一歲之限,不合禮意,又違先帝已然之法,所未敢處.」
[一] 並獻帝子.(『後漢書孔融伝)

建安五年、南陽王馮と東海王祇(李賢注:いずれも献帝の皇子)が幼くして亡くなりまして、それを悼んだ献帝が"四時之祭"を行おうとしました。しかし孔融は反対し、梁懷王、臨江愍王、齊哀王、臨淮懷王らいずれも夭折した皇子諸王の前例を引き、ただ成人と同様の祭祀を行うことで充分な追悼になると意見したという記事です。
問題はこの時亡くなったという献帝皇子の南陽王と東海王でして、どう考えても後者は何度も出てきた劉羨の父東海王劉祇を指しています。

秋七月,立皇子馮為南陽王.壬午,南陽王馮薨.
東海王祗薨.(『後漢書献帝紀建安五年)

と言う訳で、劉祇・劉羨・劉敦という三人の東海王を巡って、孔融伝・東海王伝・献帝紀がそれぞれ矛盾しているのです。ややっこしいな。
【東海王を巡って】
献帝本紀・・・建安の東海王は劉敦で漢魏革命で崇徳侯
東海王伝・・・建安の東海王は劉羨で漢魏革命で列侯
【劉祇を巡って】
孔融列伝・・・劉祇は献帝の子で夭折
東海王伝・・・劉祇は東海王の子孫で長生


それを踏まえて、まずは最初に挙げた劉羨・劉敦の東海王重複問題に関して、銭大繒説に対する侯康の反論です。侯康は孔融伝を引いた上で以下のように言います。

是東海王祇薨時、尚屬沖齢。又考献帝以九歳即位、至建安五年、年才二十、不得有孫。然則東海之封、建安五年已絶。故今以封敦、無容改為北海也。

侯康説は「劉祇が夭折したこと」「劉祇が献帝(20)の子であること」を根拠にして劉祇に後継たる息子がいたはずがなく、この時で東海国は絶えたのだとします。だから建安十七年に劉敦が封じられたのは問題ないと。つまり孔融伝を全面採用して東海王伝の「劉祇が王にあること四十四年で死去したこと」「劉祇が前東海王劉臻の子であること」をまったく否定しているのです。
続いて引かれる黄山という人が言うには、劉敦を東海王とすることは『後漢紀』にも『資治通鑑』にも『三国志』が引く『山陽公載記』にも書かれており、これを北海王の誤りとすることはありえない、と。
(1)孔融伝に従えば劉祇は献帝の皇子であり夭折した。東海王伝は誤りである。
(2)銭大繒の北海王説は『後漢書』以外を見る限りあり得ない
どうにもぼくは(1)が根拠の薄い決めつけのように思えるのですが…。
また(2)に関して、『後漢紀』と『資治通鑑』を根拠とするのは微妙な気がしますがいかがなのでしょう?『後漢紀』の記述に『後漢書』が従い、またそれに『資治通鑑』が従っただけでは…と思うのですが。


さて場面を『後漢書集解補』孔融伝に移しまして、第二の問題である劉祇の親についてです。
ここでも銭大繒は東海王列伝を根拠にして、孔融伝を否定しています。
一方で黄山南陽王(あるいは東海王)が封建された年に注目します。すなわちこの建安五年は董承の謀反が発覚した年であり、こんな時に諸王を立てるなんてことができようか。よって献帝紀の「立皇子馮為南陽王」は削除すべきであり、南陽王と東海王が献帝の子であるとの根拠もなくなるとします。ずいぶんと思いきったことを言ったものですが…。そしてかつ東海王列伝に対しても「融伝明有故事、必不至誤」として誤りがあるはずと言うのです。

東海王彊之国、伝至孝王臻薨後、必已中絶、而後有東海王祇。祇薨国又絶、而後有東海王敦。…或羨即敦之更名。…若祇・羨、皆彊後、則敦為帝子、何得亦有東海之封。

という訳で三者の東海王家が出そろいましたのでまとめますと、

【銭大繒】
東海王劉臻の死後は子の劉祇が継ぐ。劉祇の死後は劉羨が継ぐ。漢魏革命で崇徳侯になった。
劉敦は北海王の誤り。
【侯康】
東海王劉臻の死後は後継なく絶えた。後に献帝の子の劉祇が継ぐ。劉祇が建安五年に死んで国が絶えた。建安十七年に献帝の子の劉敦が継いだ。漢魏革命で列侯になった。
劉羨に言及はない。
黄山
東海王劉臻の死後は後継なく絶えた。後に出自不明の劉祇が継ぐ。劉祇が建安五年に死んで国が絶えた。建安十七年に献帝の子の劉敦(別名羨)が継いだ。漢魏革命で列侯になった。






侯康説・黄山説ともに、東海王列伝の劉臻以降をごっそり否定しなくてならず、また劉祇が紹封されたとの記述がどこにもありませんし、やはり相当ムリのある解釈だと思います。
また『後漢紀』初平四年に「東海王子琬、…以琬為平原相」とありましてこれに従えば劉臻以後は国が絶えたとする両者の筋が通りません。普通に考えれば初平四年にいるべき王、劉祇が彼の父親として健在だったのでしょう。
と言うことでやはり東海王列伝を基準とする銭大繒の説がもっとも不自然ないと思われます。
献帝本紀は「敦為東海王」が何かしらの間違えか、ここに限って東海王列伝の記述漏れ。
孔融伝は「東海王祇」を削るか、あるいは別人が本来入るべきだったかでしょう。
そもそも侯康・黄山はひたすら孔融伝に固執して論を進めていますが、ここの記事に関しては孔融の台詞にある「梁懷王、臨江愍王、齊哀王、臨淮懷王」にすでに誤り*1 *2がすでに見られますから、内容の解釈に関してはともかく「東海王祇」の文字が絶対であると考えることはできないでしょう。

*1:齊哀王は劉邦の孫であり、昭帝の兄弟とするならば齊懐王が正しい

*2:臨淮懷王は臨淮懷公とするのが正しい。いずれも李賢注