三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

その後の漢帝

黄初元年十一月癸酉、河内山陽の邑万戸を以て漢帝を奉じて山陽公と為す。(『三国志』文帝紀)
(青龍)二年……三月庚寅、山陽公薨ず……山陽公に諡して漢孝獻皇帝と為し、漢禮を以て葬す。(『三国志』明帝紀)

 劉協についてはもう皆さんご存知の通りかと思います。*1
 ちなみに諡号に関して「献帝」が当然一般に知られていますが、これ以前に蜀漢は独自に「孝愍皇帝」と諡しています。これは220年、漢魏革命によって劉協が弑殺されたとの報せに基づいて、劉備が贈ったものです。すると蜀漢を正統とする史書ではちゃんと劉協の諡を愍帝としているのでしょうか?(笑) 
 なお『三国志平話』では魏晋禅譲まで生きており、それを見て嘲笑いながら亡くなるという、非常にドラマティックな描かれ方をしています。個人的にはとても好きな場面でして、『三国志演義』でもうまいこと取り入れてもよかったんじゃないかなって思います。

適孫の桂氏郷侯康、嗣立して山陽公と為る。(『三国志』裴注引『献帝伝』)
(太康六年)九月丙子、山陽公劉康薨ず。
(太康十年)六月庚子、山陽公劉瑾薨ず。(『晋書』武帝紀)
(永嘉元年)平原に入掠され、山陽公劉秋は害さるるに遭う。(『晋書』懐帝紀)

 劉協の死後は孫の劉康が継ぎ、魏晋革命を経て、劉瑾、劉秋と継いで、最期は永嘉の乱に巻き込まれて漢の系譜は途絶えてしまいます。
 ちなみにこのずっと後の咸康二年、東晋の成帝が漢の祭祀を復興させようとその末裔を探したそうですけど、それ以降も特に記録がないので結局見つからなかったのでしょうか(´・ω・`)

*1:王沈『魏書』によれば、山陽公夫人曹節との間の娘、劉曼が長楽郡公主に封じられています。(公女曼為長樂郡公主)。三国志大戦にも参戦している人ですね。