三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

降格されなかった諸王 【曹植と曹叡】


 
・曹魏諸王公一覧表


 黄初五年、それまで郡に封じられていた諸侯王を県王に降格させるとの詔が出されました。なので当時の諸王の列伝には例外なく黄初五年(ないし六年)に降格された旨が記載されています。
 この二人を除いては。
 普通だったら特別に降格されなかったんだ\(^o^)/と読めるところですが、いわくつきの二人ですからそう素直には読みたくありません。
 なぜ曹植曹叡は、諸侯王でありながら降格処分を受けなかったのでしょうか?




 まず曹植ですが、これはおそらく単に黄初五年の時点でスデに県王だったのでしょう。"五年の降格"は「郡王⇒県王」という処分ですから、元から県王以下の者には無関係だったのです。
 黄初五年の曹植は雍丘王。雍丘は『後漢書』『晋書』どちらにも陳留の一県だとあります。曹操の実子が全員郡王に封じられる中で、曹植だけが県王だったのです*1。( ´・ω・)ザマァ


 では曹叡はどうか。

年十五にて武徳侯に封ぜられ、黄初二年齊公と為し、三年平原王と為す。その母が誅されるを以て、故に未だ建てて嗣に為さず。七年夏五月、帝(曹丕)の病篤く、乃ち立てて皇太子と為す。(『三国志』明帝紀)

 これだけ見れば武徳侯→斉公→平原王→魏帝と順調な爵位を歩んできたように思えますが、他の諸王ならば「平原王」の次になんかしらの県王が入っていなければおかしいのです。それが明帝紀にないのは何故か。
 可能性のひとつには、彼が本当に平原郡王から降格しなかったんだという見方もあります。
 すると、五年の降格沙汰の例外となった郡王は他に一人もいませんので、そうならば曹叡は諸侯王として破格の待遇を受けていたことになります。
 これまでのネガキャンから考えると*2曹叡がそんな高待遇を受けるなんてちょっと考えにくいですが、ただ彼が諸侯王筆頭として皇帝を補佐する立場と目されていたとするなら、確かに年長ですしありえない話ではありません。光武帝の長男、東海王劉強のような例もあります。


 ですが自分としてはこう考えてみたいと思っています。
 曹叡が五年の降格沙汰に引っかからなかったのは、それ以前に既に何らかの降格処分を受けて郡王でなくなっていたからだと。黄初三年から五年の間に、明帝紀にはない密かな降格処分が実はあったのだと。
 一見して最高に胡散臭い仮説ですが、しかし曹叡には心当たりがない訳ではないんです。
 つまり、T_Sさんがおっしゃっている「平原侯への一時的な降格」、これがちょうどこの時期にあったのかもしれない、と思うのです。
 曹叡は黄初三年に平原郡王になっていた。しかしT_Sさんの指摘のように平原侯に降格させられてしまった。黄初五年時点でも平原侯だったので、郡王を対象とした降格処分は受けなかった。
 明帝紀曹叡の不名誉となる平原侯への降格を書かなかったために、黄初五年の降格処分と明帝紀の記事との間にも矛盾ができてしまったのだろうと、ぼくは思いました。

*1:ほんとはあの嫌われ者も公爵どまりなんで、曹植ひとりだけってのは半分冗談です(笑) しかし曹植、他の兄弟だったら黄初二年に公爵⇒三年に郡王と昇進するところを、二年に安郷侯と鄄城侯⇒三年に鄄城県王⇒四年に雍丘県王ですから、本当に冷遇されていたんですねぇ。

*2:曹叡様の華麗なるプロフィール☆
・実は王から侯に降格していた
 「てぃーえすのワードパッド」‐平原王と平原侯
・実は嫡子ではなかった
 「三国与太噺」‐封建されなかった曹叡の弟 【曹蕤】
・実は長子ではなかった
 「三国与太噺」‐曹叡、字は元仲 【曹協】
・実は曹氏ではなかった
 「てぃーえすのワードパッド」‐曹叡の年齢
・実は郡王ではなかった
 「三国与太噺」‐降格されなかった諸王 【曹植と曹叡】 ←NOW!