せめぎ合う十三歳 【陸鬱生】
張白の妻は陸績の娘である。鬱林で生まれたので名を"鬱生"という。
張温の弟である張白に嫁いだが、張温が罪を被ったため張白らは配流された。鬱生は離婚され、また競って婚姻の申し出があったものの、決して再婚しようとはせず、張温の姉妹三人を大切にした。
姉妹の二女は既に顧承に嫁いでいたが、後に官に許されて丁氏に嫁ぐこととなった。ところが婚姻の日に薬を飲んで死んでしまった。郷里では鬱生と併せて皆賞賛した。
姚信が上表して曰く「私は聞いております。・・・・・・故鬱林太守陸績の娘の鬱生を見ますに、正しい道を踏み行い、曲げることのない節操を持っております。13歳で同郡の張白に嫁ぎ、祖廟に侍す3ヵ月が終わらぬうちに張白は禍に遭い、配流されて亡くなりました。鬱生は夫への節操を守ることを明らかにし、・・・・・・有力者からの使者が訪れても再婚を決して承知することがありませんでした。・・・・・・鬱生を表彰するために義姑という号を賜り、年若い者の節義ある行動を奨励してくださいますように」*1しかし孫権は承知しなかった。
‐『続後漢書』陸鬱生伝
蜜柑で有名な陸績の娘、陸鬱生です。世代的には陸遜らの従妹にあたりますね。『三国志』陸績伝が引く姚信の上奏にその名前と事績が記されており、『続後漢書』はほぼそちらに基づいています。張温らが罪に服した事件が225年頃なので、当時で13歳だった鬱生の生年は213年頃ですね。
さてこの鬱生、表向きは"よくある貞節話"ですが、ご覧の通り張温失脚事件という政争にまつわるものであり、先日挙げた夏侯令女(曹爽失脚事件)や范姫(二宮事件)同様のキナ臭さが窺えます。
先日の夏侯令女は彼女個人が一族を批判した形であったと書きましたが、鬱生の場合ですと彼女はまだ年13でありこの幼さでは再婚拒否が彼女の意志であったかは疑問であります*2。陸績の死後、兄妹は陸遜の弟陸瑁を頼ったとありますし(陸瑁伝)、おそらく婚姻から離縁までその方向からの意向が働いていたことでしょう。
加えて上記列伝にあるように張温の妹もまた、顧承の妻だった所を引き離された挙げく、再婚を拒んで自殺までしております。官からの赦しが出たにも関わらずです。張温失脚というひとつの政変を巡ってふたつの再婚拒否。さらに陸鬱生を賞賛すべしと上奏した姚信、張温妹の旦那である顧承、二人が共に陸遜の外甥であるなど、孫権の対岸がすべて陸遜を中心とする身内勢であること。
渡邉先生の『三国政権の構造と「名士」』3章2節によりますれば、張温失脚事件は急進派名士による行き過ぎの結果であり、それに対し陸遜ら君主権力との妥協点を探る名士層は、張温に直接の反対はしていないものの時期尚早であると批判的態度を示したとのことです。
ですが前述の二点を考えれば、この再婚拒否騒動は君主権を行使した孫権に対する呉郡名士層のささやかな抗議の表れだったのではないでしょうか?鬱生という、ちょっと外野を攻めるあたりが渡邉先生のおっしゃる"協調姿勢"に基づく微妙なバランス感覚であるように感じますね。
それにしても可哀そうなのは鬱生です。このように再婚拒否が貞節譚として残ると言うことは、逆に言えば再婚それ自体は当たり前に行われていたという事です。政争パフォーマンスによって13歳にして一生嫁げぬ身になってしまった鬱生。政略不再婚といったところでしょうか。姚信がわざわざ上奏したことも頷けます。
ところが孫権は姚信の上奏を拒否してしまいます。*3
夏侯令女のケースで司馬懿が度量を見せたこととは対称的ですね。既にクーデターを完遂して主導権を握っていた司馬懿とは異なり、今現在で名士たちとせめぎ合わなくてはならない孫権の緊張感が窺えるように思えます。