三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

蜀郡趙氏C 【趙謙】

 字を彦信。八俊趙典の兄子にして、十五年司徒趙温の実兄であります。
 弟と相次いで三公に登るなど、後漢ではこれ含め3例しかないです。


 しかし趙謙の名前が出る最初は、霊帝中平元年、汝南太守として黄巾賊に敗北するという、ちょっと恥ずかしいものでした*1
 しかし黄巾の乱というと、『三国志演義』では劉備らに鎮圧されるだけなんでイマイチ緊張感に欠けますけど、趙謙が敗北したその頃、幽州では刺史と太守が揃って敗死、6月には朱儁波才に敗れ、冀州では王国の半数以上が滅ぼされるという大惨事に至っています。皇甫嵩曹操キチガイなだけでホントは強いです黄巾賊。
 この時、袁祕(汝南袁氏のひとり)や郡功曹ら7名が趙謙を守って討死。のちに「七賢」と称されました*2


 趙謙最初の三公は初平元年、黄琬に代わって太尉になります。
 『続漢書』によりますれば黄琬は長安遷都に反対して罷免されており、一方でそれに代わった趙謙は車騎将軍を兼務して、まさしく長安遷都の露払い役となります。*3 そしてその功を以て洛亭侯。*4
 『華陽国志』では趙謙も荀爽らと共に遷都に反対したとありますけれど、ちょっとわかりませんね。実弟趙温もまた遷都計画に関わって列侯を賜っております。


 翌年司隷校尉に遷り、そこで車師王侍子事件が起きます。
 この件は『後漢書』趙典伝と、『三国志董卓伝が引く『献帝紀』にあり、『後漢書』によりますと「車師王侍子が董卓の愛する所となり、しばしば法を犯したので、趙謙はこれを殺した」とのこと。
 車師国は西域の一国でして、一国の人質を勝手に処刑してしまうとは穏やかではありません。しかし董卓は「もとより趙謙を敬い憚っていた」のでその部下を処刑するに留めました。
 時の権力者董卓を懼れぬ英断に、『華陽国志』は、同じく李傕を強く批判した実弟趙温と合わせて、「謙は卓の牙を摩し、温は傕の爪を弄し、權勢に逼らると雖も、道を以て訓を陳ぶ」と高い評価を与えます*5


 その後、趙謙は前将軍に転じて白波賊を撃破。中平元年のリベンジですね。その功で郫侯を賜ります。
 王允が李傕に殺されると代わって司徒に就任。しかしその年に病死してしまいます。諡して忠侯。*6
 嫡子の趙簶は蜀郡に還り、『郷俗記』を著したと、『華陽国志』蜀志の蜀郡の項目にあります。
 ちなみに趙謙の妻は同郡の常洽の娘で、常紀常という、これも有名な女性であります*7

*1:後漢書霊帝

*2:後漢書』袁安伝附袁忠

*3:後漢書献帝紀、趙典伝

*4:『華陽国志』

*5:『華陽国志』先賢士女總讚論

*6:後漢書』趙典伝

*7:『華陽国志』先賢士女總讚論