蜀郡趙氏D-1 【趙温①】
字を子柔。益州蜀郡成都県の人。
益州には豪族趙氏が広く生息していたようなのですが、特にこの蜀郡趙氏は趙戒・趙典・趙謙・そして趙温という当代きっての官僚・士大夫を輩出した極め付きの大姓です。
その中でも趙温は三公を歴任―それも十数年に渡って、というエリート……なのですが。
はじめ京兆丞でしたが「大丈夫たるものは雄飛するべきで、このように雌伏するものではない」と職を棄てます。*1 京兆丞を"雌伏"と言ってしまうところがすごいですけど、この言葉「大丈夫 當に雄飛すべし、安んぞ能く雌伏せん」は、「雌伏」「雄飛」の故事として今なお知られています。
桓帝の頃、蜀地方にて「板楯蛮夷」が叛乱。すると巴郡太守であった趙温が「恩信を以」て鎮圧しています。*2
「板楯蛮夷」は巴郡に多数住んでいた非漢民族で、『後漢書』が「神兵」と称えるほど屈強な民族でした。漢朝に背くこともしばしばですが、一方で148年の白馬羌反乱では時の益州刺史が板楯蛮を率いて鎮圧するなど、臣従と反乱を繰り返していた異民族です。漢中を支配した五斗米道にも板楯蛮が含まれていたようで、張魯降伏後に曹操が板楯蛮の王を巴郡太守に任命しています。またあの王平が板楯蛮の系統だという話もあります。
そのように巴郡に名高い蛮族を、蜀郡の大姓・趙温が鎮めたというところに、当時の益州事情、また蜀郡人士の基盤といったものが窺えるようでもあります。
時は流れて40年ほど、董卓の長安遷都に際し、趙温は侍中を拝して献帝に随行しています。その結果、江南亭侯に封ぜられる*3。
どうも趙謙の伝を見るに、この趙氏兄弟は長安遷都に深く関わっていたようです。詳しくは実兄趙謙の項で扱います。
そして193年、李傕政権下で、楊彪に代わって太常から司空に就任。同年末に衛尉に遷りますが、翌年再び司徒、録尚書事を拝命します。これが194年のことで以降、208年に三公そのものが廃止されるまでこの座にあり続けるのです。*4
後漢最後の司徒。趙温、58歳のことでした。